令和2年度 食文化栄養学実習

平野覚堂ゼミ■ビジュアル・コミュニケーション研究室


新しい時代の米の話
─米の多様性と人々をつなぐ架け橋になる─


 普段米について成り立ちや味、食味といった多様性や魅力を意識した事が無い人が改めて米の面白さについて再発見する事を目的とする。飽食の時代と呼ばれるようになったのと期を同じくして消費量は減ってきている。一方でこのような現状に対して最近の米は改良され美味しくなり、品種増加している。品種改良における系図や個性を表現したパッケージに関してもみるべき点が沢山ある。このような状況から、米の価値が以前とは変ってきた様に考え、私は米の現在にスポットライトを当てる事にした。これまでに自身やゼミで米の試食をし、その結果をインスタグラムに投稿をしてきた。また、米にこだわりがあったり、品種を選択出来たりする店舗の調査をしたり、お米屋さんに話を聞くといった活動をした。インスタグラムの更新の結果、多くの人とつながる事ができ、米屋さんなどと交流をする事が出来た。アカウント自体が米の図鑑のようなイメージになっており気軽に米の特徴を知ってもらえる一つの方法になったように思う。
 また、前回から文献の読み込みを進め、更に多くの試食をしてきた。ゼミで「自分の好みの米を見つける」をテーマに特性の違う米4種類の食べ比べ会を実施した。自身の活動のまとめとして食べ比べ、米に注目した飲食店の市場調査、通販やペットボトルでの販売などの新しい販売形態、米の歴史などをまとめた冊子を作成し、これとは別にインスタグラムにあげた食べ比べを総まとめした冊子も作成した。両二冊とも、発表後に外部に配布する事も考えている。更に甘さや食味を表したチャートパネルも作成した。これらの活動報告と制作した作品を通して米に対して多様性や食味などの米の魅力を意識した事が無い人達を含め、多くの人に米の多様性や魅力を感じてもらいたい。



心の瓶を可視化する


 私達は日々、何かを感じながら生きている。喜びや哀しみ、怒りなど。人はこれを心、感情と呼ぶ。心は人それぞれで、鈍感であったり、敏感であったり。単純であったり、複雑であったり。しかし、何を持って鈍感・敏感などと言えるのかと問われれば、答える事は出来ない。何故なら見えないからだ。数値化が不可能な為、比べようがないのだ。そんな見えない存在である心は、誰しも持ち合わせており、探り合いが行われている。世の中では、自分の本当の心を偽って人にみせる・表している人が多いではないだろうか。本当は悲しいと感じているのに、笑顔を装ったり。本当は良いと思っていないのに「良いですね」と称賛してみたり。大丈夫じゃないのに「大丈夫」と言ってみたり。本当の心をみせる・表す事で「嫌われてしまうのではないか」「叩かれてしまうのではないか」と思い恐れ、つい取り繕ってしまうのだ。「心は見えない」からこそ、他人に敏感で臆病になってしまうのだ。そして、ふとした瞬間に本当の事が言えなかった事を後悔をしたり、ため込んでしまったりする。後者の方では、それが積み重なり人は心がパンクし、病んでしまう事がある。心を偽り、探り合いをする日々に疲弊をしている人も多い。私は、本当の心の在り方についてもっと考えるべきだと考えた。心とは見えないものである為、考える事は難しい。しかし、見えないからこそ自由に考えたり表現をする事ができるのではないか。私は考える際に、可視化する事が必要だと考えた。考えるだけではなく実際にものとしてみる事で、気づきが生まれるであろう。「心は一体何で出来ているのであろうか」と考えた時、在り方や繊細さから、それはまるで瓶のようだと考えた。私達は日々、外からの刺激に大きな影響を受けている。その刺激を受けた際に、心の器に何かが注がれ感情を織り成している。その器として「瓶」の存在。瓶と食材を使い心を表現していく。



想いを伝える焼き菓子ギフト


 私たちは日常的に贈答の文化に触れている。日頃の感謝の気持ちを込めてお中元やお歳暮を贈ったり、お祝い事にも贈り物を渡す。贈り物にはタオルや花束、食料品といった様々なものがあるが、贈り物の中でもお菓子は一般的なものであり、誰かに焼き菓子を贈った経験がある人も多いのではないだろうか。私もその一人である。焼き菓子は日持ちもするし、あまり好みも分かれないため、贈り物として選ばれやすい。しかし、焼き菓子の種類は決まっていつも、マドレーヌやクッキー、フィナンシェにドーナツなどが選ばれる。何が違うかといえば味くらいだ。プレーン、ココア、紅茶、コーヒー、そんなありきたりなよくある焼き菓子を詰め、「ありがとう」や「おめでとう」の想いをのせて贈る。詰められたお菓子それぞれに決まった意味はない。何を選んでも「ありがとう」や「おめでとう」をのせることができる。では、焼き菓子自体に意味があったらどうだろうか。贈られた焼き菓子にどんな意味が込められているのか、きっと知りたくなることだろう。お菓子にも生まれた理由があり、そこに込められた想いがあるのだ。
 最近では、以前と比べて人と会うことを躊躇ったり、なかなか地元に帰ることができない人もいる。そんな今だからこそ、いつもは直接伝えられないようなちょっと気恥ずかしい想いや、普段言えなかった想いを、思い切ってギフトにして贈ってみよう。皮肉めいたことでも、お菓子にして伝えてみたらクスッと笑えてしまうかもしれない。贈られたひとつひとつの焼き菓子の意味から、それがどんな想いが込められたギフトなのかを考えてみるのも楽しいはず。また、普段ギフトではあまり見られない焼き菓子も入れてみた。そのお菓子の存在や由来を知るきっかけになるといいし、ギフトにおける焼き菓子の可能性が広がってくれるといい。「大切な人に自分の想いを、お菓子を通して伝えてみませんか?」



我が家めし
─内食の温かさがもたらす変化─


 現代は、調理せずとも手軽においしい料理が食べられる環境があります。宅配、総菜、冷凍食品―、自分の食の価値観からこれらを取捨選択しています。しかし、そのご飯は何年後かに記憶として残るのでしょうか。最近は、新型コロナの影響により自宅で過ごす時間が増え、空いた時間を利用して料理に力を入れる人が増えています。その作る過程の楽しさや自慢したくなる出来栄えに満悦する人。家族での食事が増えた人。一人暮らしで人との食事が恋しくなった人など様々な人がいます。何気ない日常食がお腹を満たすもの。健康になるためのものなどの機能的な食だけではなく、精神的に心を満たされるものだと実感する人も増えているかもしれません。
 そんな食が日々の生活にゆとりを与えてくれる代表的な場所である家庭を実習の対象にし、よりリアリティある日常を表現するために我が家を題材としました。我が家では、昔から家族揃って食事することが多く、外食や中食は年に数回でした。大学生になり、外食や中食を多用するようになった現在だからこそ、内食の温かさの大切さ、人との結びつきを見つめなおし、作品に反映してきました。その制作中、かなりの時間を家族と食事する事について考えていた結果、当たり前の存在から段々と貴重な時間であると心境的変化も起こりました。何気ない日常の食事ですが、時間の経過とともに人によっては大事な時間の積み重ねかもしれません。その記憶が日々を支えていると考えたら、内食の温かさが身に染みてきます。
 本研究では、木版画という自然の温かさとその料理にまつわる我が家の温かくなれる小話にしています。
その温かさが伝染していったら、人の作る料理が心を温めたということのなるのではないでしょうか。今回一つの家での何でもない食事シーンの世界観を堪能してみてください。



健康健康うるせぇ!!
─健康関連食品市場が拡大している事への不安と疑問─


 「脂肪と糖の吸収を抑える」「ストレスを低減する」「タンパク質強化」。このように文字で大きく健康効果を訴えているパッケージをコンビニやスーパーに行った時、目にすることはありませんか? あなたはこのようなパッケージを見て、どう感じますか?  「美味しいものを食べて身体に良いなんて嬉しい」と私は思っていました。しかし、このような食品が増えるにつれ、好みやその時の気分で食べたいものを好きに選ばせてほしい、とも思うように。自分の体を気遣い、食べ物の機能のことを頭に置いて食べ物を選ぶことは大切です。しかし、人間が食べ物を食べるのは健康を維持するためだけではありません。食べ物を食べる事で人間は幸福感を得ています。更に、食べ物を選ぶ事も楽しい時間という人も多いのではないでしょうか。「美味しそう」「好き」。このように感情を優先して選んだ方がきっと食べることは楽しいのではないか? 私は健康効果の書かれた食品を見ると、そんな食べものに対する感情を否定しているように感じてしまいます。また、食べ物を選ぶ時、ふとこのようなパッケージを目にすると健康効果を必要以上に気にしてしまうこともあります。栄養素に気を取られ、一般的に体に悪いと言われている食品を選んだ時に罪悪感に襲われることも。私は、周囲の女子大学生がどのように食べ物を選んでいるか、私と同じような考えを持っている人がいるかが気になり、アンケートを実施しました。また。商品パッケージの法律や歴史、食品の健康効果が与えた影響について調査を進めてきました。調査結果を写真やインフォグラフィックという手法を使い、伝わりやすさや面白さを追求して発表作品を作っています。健康効果を謳った食品が私たちにもたらすのはメリットだけなのか? デメリットもあるのではないか? 増加させる意味はあるのか? 私が感じた不信感や疑問を解き明かしたい。



きらいなわがし


 私は祖父から約50年続く和菓子屋の娘。幼いころからお店番をしていて常連さんからは看板娘なんて呼ばれたりもする。しかし、私は和菓子が嫌い。もちもち、べたべた、パサパサ、とにかく食感が嫌い。また客観的に見て近年の和菓子離れは深刻であり、和菓子屋が次々に閉店している。子供や同世代の人の「和菓子が嫌い」「あんこが嫌い」という言葉も店頭でよく耳にする。そこで、もしかしたら和菓子にマイナスイメージのある私でも食べられる和菓子を作ったら、同じような苦手意識を持っている人にも「食べてみようかな」と思ってもらえるのでは、と思い、この実習を始めた。
 コロナウイルスの影響で職を無くした私は4月から見習いとして実家の和菓子屋で働き始めた。仕事内容は大きく分けて接客と製造。今までも接客はしたことあったが、長期間にわたって働くことはなかった。この約8か月で多くのことを学んだ。簡単そうにやっていたお団子のあんこ付けが全然つかなかったり、幼い子供はお団子よりもすあまが好きだったり。何回もやることで体が覚え、今ではお団子のあんこ付けもお手の物、お饅頭も包めるようになった。そして和菓子屋の日常を伝えるためにインスタグラムのアカウント(@kirainawagashi)を開設し、情報発信にも力を入れた。基礎を学びながら「わがしが嫌いな私だからこそ、作れるわがしを。わがしが嫌いな人でも食べてみたいと思えるようなわがしを」をテーマに作品を制作した。中間報告では、寒天の食感が苦手、羊羹の甘さが苦手の2つに着目し、五月・六月が旬の果物を使うことを条件とした「杏羹」「甘夏羹」を考えた。甘夏羹は販売するために改良を重ね、「そうらい」として実際に8月から約1 か月半店頭で販売した。本発表では「杏羹」「甘夏羹」に加え、2つ製作し、1つは実際に店頭で販売している。



干菓子を日常に
─吹き寄せと一緒に四季を感じる─


 和菓子の和は「日本」の和であり「和む」の和。四季を感じ、日本人の心を表現し、人の心を和ませるものが和菓子だ。日本全国にさまざまな和菓子があり、その一つひとつの色や形、味、銘にその土地の風土も豊かな感性も詰まっている。茶菓子といえばチョコ?洋菓子?おせんべい?沢山のお菓子があるなか干菓子を選ぶ人はいるのだろうか、もう少し日常で干菓子を食べる機会が増えたらいいのに。四季と一緒に寄り添う干菓子を日常のお茶菓子として味わい、四季を感じつつ和菓子は生菓子だけではなく干菓子もあること、その干菓子と半生菓子の種類も知ってほしい。
 そして干菓子を知ってもらうために吹き寄せを作ることにした。吹き寄せとは干菓子を何種類も取り合わせたものである。関東は小さなせんべいや昆布などを、関西では、色づいた木の葉などをかたどった落雁・雲平・有平糖などを取り合わせたものをいうことが多く、さまざまな木の葉が風でひとところに吹き寄せられるさまに見立てたものだ。本来吹き寄せは秋のイメージが多いが秋だけではなく冬も作成する。
 それぞれ題は「秋は夕暮れ」「冬はつとめて」である。紫式部の枕草子の言葉を借りて。作品通りの秋は夕暮れが一番というわけではなく秋、冬の情景をまとめて表した言葉として使用した。既存の干菓子のレシピを元にアレンジを加え食感、色、甘さの組み合わせを考えた。また上記に記載した関西、関東と地域別々の干菓子ではなく混合した吹き寄せである。
 人はどんな時に季節を意識するのだろう。私は日常で四季の移ろいをしみじみ感じるときが少なくなってきているように思う。夏には柑橘味、冬にはいちご味とお茶菓子の味で季節を感じるのではなく、四季と一緒に寄り添う干菓子を日常のお茶菓子として味わいたい。



くうふくさいこう
─美味しくご飯を食べられている?─


 お腹を減らしてから食べるご飯は美味しい。
 「空腹は最高のスパイス」という言葉があるように、満腹状態で食べるご飯より空腹状態で食べるご飯の方が美味しいと感じる。次のご飯のことを考えると今食べ物を食べない方が美味しく食べられるということをわかっていても小腹が空いたからつい間食をしたり、特に理由なくお菓子を食べてしまったりする時もある。また、近年コンビニエンスストアの増加により手軽に食べ物が手に入ったり、一度封を開けてももう一度封が止められるなどの持ち歩きがしやすいチャック付きの食べ物が多く見られるようになったことで空腹状態になることを邪魔していると考えることができる。
 そこで、このような誘惑に負けずにご飯を美味しく食べるための空腹状態に進んでなろうと思えるものを作ろうと思った。  いつでもどこでも食べ物が手に入るようになった今だからこそ、自ら進んで空腹という何も食べない時間を作ることが難しい。しかし、美味しくご飯を食べるために空腹は必要不可欠だと考える。空腹になってからのご飯は美味しいと知っている人は大勢いるが、行動出来ている人はどれほどいるのだろうか。知っているだけではなく実際に行動に移してご飯を美味しく食べてもらうことが本発表の目的である。
 間食は場所や時間を選ばず日常的にできることなので、私も日常の生活に溶け込むようなかつ目に止まるようなものを作ろうと思った。「美味しさをはっきり見よう」をテーマにしたポスター制作と、「美味しさを育てよう」をテーマにしたキャラクターを使ったアニメーションを制作した。
 自ら空腹にしよう、間食をせずにご飯の時間まで空腹を楽しもうと行動に移し「くうふくさいこう」と思ってもらえたのならば、この発表は成功と言えるだろう。



虚構菓子
─シナリオ×お菓子=トキメキ─


 「表現の世界で遊びたい。」
 突然だが、私は本が好きだ。本の魅力とは、自分の全く知らない世界や人生を体験できることにある。本の中の世界では、私は王様にもなれるし、殺人者にも大泥棒にもなれる。動物と意思の疎通ができたり、魔法が使えたり、違う時空に飛び越えることも可能だ。そんな虚構の物語の数々は、私を強く惹きつけてやまなかった。その一方で、本を始めとして、私の大好きな表現の世界は独特の空気があり他者からの理解を得にくい。アート、小説、漫画、音楽。芸術と日常の距離が時に遠く感じてしまうのは、それらが娯楽・非日常的だからかもしれない。
 “表現の世界を少しでも近づけることができたら。” “自分の中の世界観を他者にもうまく伝えることができたら。”そこで結びついたのが「虚構×食」である。表現が「食」に寄った途端、日常とぐっと距離が近くなる。きっとそれは、「食」が私たちの日常の中でも欠かすことのできない、必要不可欠なものだからだ。食の前ではみんな平等に、「おもしろい」とか「美味しい」とかシンプルに素直な感覚で楽しむことができる。そんな食の持つ、人と人をつなぐ力を使って、物語と食が織りなす作品を手掛けていこうと考えた。今実習で「食」の中でも「お菓子」に焦点を置いたのは、お菓子の持つ柔軟性の高さはもちろんだが、何より「今までのお菓子の世界になかったものを作りたい」という思いがあったためである。物語とお菓子が揃って初めて一つの作品となるような、新しい試みに挑戦するつもりだ。本発表では、新たに考えた虚構の物語とそのお菓子たちを紹介、堪能していただく。さあ、貴方も一緒に溺れてみませんか?トキメキがいっぱいの虚構菓子の世界にようこそ。



ものと生きる
─ものと人間が歩む未来─


 ものが豊富に増え便利な現代で、1つ1つものを大切に使っている人はどれだけいるのだろうか。ものは豊富にあるが、有限だ。ものがなくなったら人はどうなってしまうのか。ものは人間の生活を支える主軸の為、なくなったら十分な生活が出来なくなる。だが、良い未来や悪い未来を作り出せるのは人だ。私は本実習で人間と同じくものも「生きている」ことを第三者に認知し考えてもらいたい。
 私は本実習の作品で次のことを伝えたい。それは「ものの有り余る時代でどう生きるか」だ。ものは人間が自由に購入し使い、必要なくなったら捨てる。つまり、ものを扱い最後までどう使うかなど考える責任は人にあるということだ。ものの扱い次第で良くも悪くも、ものの運命が変わってきてしまう。本実習のテーマである、人が「ものと生きる」とはものの生涯を全うさせてあげることだ。本来の役目を果たせず山ずみになったものは「生きている」ことにはならないのだ。ものが豊富にあれば便利になるのは確実だが、その分使われないものが出てくる。私は1つ1つのものを大切に使い、家族にも第三者にも生活してほしい。その考えを第三者が持ち、生活を少しでも変えてくれたら幸いだ。
 作品のコンセプトを説明した上で自分の思い出かつ向き合う時間を増やしたいものを作品化していく。作品は、自分が思い出のあるものを料理で表現する。私自身が作品化する過程でものと向き合う時間が増え、料理を人間が“ 消費” することでものが朽ちていく過程を体験する。また料理という表現だけでなく、ストーリーでメッセージを補い、第三者がものに対する背景を料理と照らし合わせる仕掛けとした。この2つの表現方法でものとの向き合い方を見つめ直す。



食べる物語
─感情に対する味のイメージを表現する─


 例えば、白米は人と人とのつながりや温もりを感じさせたり、甘くて爽やかなクリームソーダはどこか懐かしい青春の気分を思い出させたりする。そんな経験はないだろうか。定義があるわけではないのに、何故だか味や料理に対する感情のイメージが出来上がってしまっている。私は、そのような料理×感情のイメージはどこからやってくるのか探ってみたいと思い、映画や小説の食のシーンにフォーカスを当てた。「お米を一緒に研ぎながらだんだんと大人に心を許すようになる子供」「沈没した町を眺めながら食べたインスタント麺」など、物語の中での食事シーンは、その人の心の内を表現したり大切な役割を担っていることが多い。何気なく現れる食や料理の中に、様々な意図や感情が演出されている。食事シーンを、繊細な人間の心情や関係性を印象的に残すための表現として使う監督や執筆者も少なくないだろう。そして、私たちが普段抱く食に対する感情のイメージは、生きてきた中で目にしてきた、このような食事シーンから植えつけられたものも多くあるだろうと考察した。今回の発表では、調査して得た気づきを元に、感情を連想させるような食について料理と言葉で表現する。「恋人と帰路につくために別れた瞬間の寂しさ」「両親に対する感謝の気持ち」「何もかもが上手くいかない時の自暴自棄」「明日が楽しみで仕方ない時のワクワク感」の4 つの感情をピックアップした。これを聞いて、まずどんな味や食が頭に浮かぶだろうか。実際にそれぞれの感情を思い浮かべられるような、ふとどこかでその味を思い出せるような、そんな料理を作成し、それを食すシーンを想定した文章を書いた。それらを合わせて、" 食べる感情" とは何なのか、その答えを追求する。



BAR ITEM
─モノでBAR 仲間を釣る─


 現在21歳である私は、BARで年齢を尋ねられて答えたときに、珍しがられることが多い。そして、「いい経験しているね」と言われることも多い。確かに言われた通りである。BARに行くことで得られるものは多い。それは、人との出会いだったり、お酒の知識だったり、マナーや常識だったりと。そして何より、BARに行くと、不思議な出来事を体験できることがある。たとえば、BARで偶然居合わせた自称占い師に、突然占われたことがある。また、偶然居合わせた人に、沖縄旅行に連れて行ってもらえることになったこともある。私にとってのBARとは、とても刺激的で、貴重な経験ができる場所だ。だが、私の周りの同世代の友人は、BARに行ったことのない人が多い。私は、一緒にBARに行ってくれる同世代の同志が、少しだけ居てくれればなぁ、なんて思う。同世代の同志とは、私のように、若いときから大人ぶってBAR に行くような人のことだ。たまにはひとりではなく、同志とBARに行って、「自分たちはいま、同世代の多くの人が味わったことのない体験をしているぞ」とばかりに、洒落たカクテルをもって乾杯でもしたい。そのような優越感を友と味わいたい。そのために、同世代の友人に、若いうちにBARに行くということへの価値を体験してもらおうと考えた。書籍やインターネット記事には、BARでのエピソードや、BAR初心者への心得などが載せられていることがある。しかしそれらは、元々BARに興味を持っていない人には読まれないだろう。ならば、パッと目に見える形として、BARに挑戦してみたくなるようなモノが存在すれば、BARに興味を持ってもらえるのではないかと考えた。本実習では、BARに行ったことのない友人がBARに挑戦してみたくなるようなアイテムを製作する。アイテムをきっかけとした、同志が生まれることを願って。



手塚治虫の性食
─漫画から読み解く食の可能性─


 漫画の神様とも呼ばれており、「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」などの国民的人気漫画から、黒手塚と呼ばれるショッキングな内容の多い「奇子」や「ばるぼら」など、数々の人気作品を手掛けた手塚治虫。手塚治虫作品では可愛らしい描写が多い印象だが、その反面、性的な描写も多い。「命・性・愛」をモチーフにした作品が多いとされ、それらの多様な在り方を表現している。漫画における性描写は低俗なものとして扱われることが多いが、手塚治虫の描くエロティシズムは決して低俗なものではない。手塚治虫は性を低俗なものとして捉えず、エロティシズムを自分の漫画の魅力の一部として取り入れていた。手塚治虫の描くエロティシズムは、私たちにとって身近でとても神秘的なものであり、命の根源であり、命の変容していく様を表現しているのである。五感は『感じる』ために人間の外側に向いている感覚であり、本来人間や動物が環境の変化に対する生体防衛のための感覚系である。漫画から読み解く手塚治虫のエロティシズムを通して、五感で感じる『性』と『食』をフードアートという形で表現していく。
 視覚やグラフィックだけでは伝えることができない、感覚的なものや目に見えないようなデザインを表現することができる素材が『食』であると私は考えている。『味わう』という表現方法は食にしかできない表現方法であり、その複雑さはもはや芸術とも言えるのではないだろうか。表現手段としての『食』の最大の魅力は『食べられること』であると私は考えている。食は五感で表現し、受け取り手も五感で感じることが可能であり、また体内に入れることができる。内臓まで届いて、その人の肉体や思考の一部になるという点では、究極の表現方法だと言える。そのため私は実際に食べられる料理でフードアート作品を作成し、手塚治虫作品の描くエロティシズムを食で表現する。