令和2年度 食文化栄養学実習

向後千里ゼミ■特任教授


御師町の歴史的な街並み保存に向けて
御師の家と御師料理の継承、上吉田の街並みから


 山梨県富士吉田市上吉田には、築400年以上の御師の家が並ぶ歴史的に貴重な御師町と呼ばれる町がある。御師の家とは、かつて富士山を信仰の対象とし、富士登山のために町を訪れる「富士講」と呼ばれる団体の宿泊の世話から登山のサポート、祈祷などを行った「御師」の住む住居兼宿泊施設の事で、日本の伝統的な木造建築の立派な住宅だ。江戸時代には信仰登山が最盛期を迎え、全国から富士講が御師町を訪れ、御師の家も86 軒並んでいた。だが時代の流れにより明治、大正と続いていた賑わいも、戦後、富士講の規模や活動が縮小、それと同時に宿坊を閉業する家も増え、現在営業しているのは5軒のみで、現存している家も少ない。400年以上の歴史が残る貴重な建物がなくなってしまうと、長く続いた歴史的な街並みは失われてしまう。御師町の入口といえる金鳥居から見える富士山と御師町の街並みには、神聖な雰囲気が感じられる。この街並みを今後も100年200年と残していきたいと考え、私は研究を進めてきた。
 ゼミの共同研究は御師料理の保存と継承、そして街並み保存である。今回の発表までに私たちは2 度以上富士吉田に足を運んだ。そして、まず御師町の街並みの良い点と課題点について探るため、御師町の建造物、空地全てのファサード撮影(建物の正面からの撮影のこと)を行いデータにまとめた。加えて白地図上に御師の家、飲食店や商店、宿泊施設などをマークし、分析を試みた。街並み歩きをもっと多くの人に楽しんでもらえるよう、そこからわかる街並み保存に向けての工夫点や提案などをおこなう。飲食店の調査を通じて得た知見から、御師料理の保存と継承に繋がる新たなお店の提案も合わせておこなう予定である。まずは、御師町を知ってもらい、興味を持ってもらえることが活性化に繋がり、保存活動の一歩であると考え、そのきっかけづくりに私の研究が役立つことを願う。



鎌倉往還が結んだ富士山の食文化
~御師料理の保存と継承~


 「あなたは御師をご存知ですか?」御師とは各地で信仰を支える人たちで、私はその中で山梨県富士吉田市に残る富士山北口御師をテーマに食生活文化について調査している。富士山北口御師は富士山参詣者の宿泊や食事の世話をはじめ、神職者として富士山信仰を中心とした地域の年中行事や神事を長年支えている。富士山御師の家で作られる御師料理は富士山に育まれた自然観や生活感から生まれたもので、銘々膳にご飯、汁、お菜が並ぶ伝統的な一汁三~五菜の本膳料理の形式を基本にした食事様式である。そして、欠かせない食材として魚があげられる。1185 年に諸国を結ぶ街道として整備された鎌倉往還によって三浦半島の三崎漁港から魚が運ばれ、また、富士吉田市に近い静岡県沼津市からも魚が運ばれ魚食文化の形成に大きく関わったと考えられており、私は静岡県出身のため富士吉田市の魚食文化と静岡県のつながりが気になり、御師料理の中でも魚について詳しく研究をしている。
 富士吉田市は海のない山奥だが、どのようにして海の魚が運ばれたのか、また、どのようにして食べられていたのかなどを中心に調査している。まず始めに沼津市へと調査に行き、その地で何が水揚げされていたのかなるべく古い資料がないかを探した。そして、御師の家に残る古文書など文献に記載されている魚を書き出してリストにし比較を行った。9月には富士吉田市へゼミ生と共にフィールドワーク調査をし、主に聞き取り調査やアンケート調査を実施した。文献調査で山梨県と水産物の交易を行なっていたという記載も複数見つかったため、沼津市から魚が運ばれていたと考えられるが、書き出したリストの中には沼津港で水揚げされた記録にないものもあるため引き続き調査を続けていく。今後は御師料理の継承と保存のために何が出来るのかを多くの人に発信出来るように考えていきたい。



夕顔が今も富士山麓で食べられているりゆう
~御師料理の保存と継承~


【はじめに】現代の日本は、「和食」が無形文化遺産に登録され「観光」など多くの分野で注目を集めている。その一方で、日本人の「和食ばなれ」が問題視され家庭での和食文化の存在感が薄れつつあることも度々見受けられる。食材においても、昔は食べられていたけれど今は食べられる機会が減少している食材があるのではないかと考えた。そこで、江戸時代には一般的に食べられていたものの、現在は私の出身地である新潟、長野、山梨など特定の地域でしか食べられていないウリ科の「夕顔」を研究テーマにとりあげる。
【御師料理と夕顔】「夕顔」は文字通り夕方に花開き、朝にしぼんでしまう夜の花で、形状は丸型と長型がある。丸型は主に干瓢用で巻きずしの具や煮物に使用され、長型は食用で煮物や漬物など地域によってさまざまな調理法がある。現在、富士山北麓の御師料理の中の代表的な食材の一つとして、夕顔が食されている。日本一の標高と美しさを誇る富士山の雄大な自然環境の恩恵をうけている山梨県富士吉田市は富士山の麓、標高約七五五〇mにある高原都市である。江戸時代には、爆発的人気を博した富士講の人々を富士山の神仏へと導き、富士山参詣者の宿泊や食事の世話をおこない、集落の食材とおもてなしの心、信仰にもとづいた神人共食の料理による食文化が特徴である。富士吉田市内には、その「富士山信仰」「富士講」の歴史を垣間見る史跡や神社などが残っている。江戸時代から大正時代の夕顔の歴史を紐解き、文献調査、御師や関係者へのヒアリングを中心に研究を進め、富士吉田市との関係についての調査分析を行う。本研究を通して、富士吉田市の食生活文化と夕顔の理解を深め御師料理の保存と継承につなげていきたい。



じゃがいもとひじきの出会い
~御師料理の保存と継承~


 富士吉田市の調査を進めていく上で、私は神饌に注目しました。神饌とは、その年に収穫した季節の作物や新鮮な魚、郷土料理、古式ゆかしいものなどが供えられ、日本の食文化の原点を見ることができる貴重な存在です。その中でも、開山祭の神饌には熟饌として新じゃがいもとひじきの煮物が献供され、明治の頃より続いていると考えられ、昭和10年8月の記録にもあり、今でも食べられていることが貴重な存在だと知りました。私は、なぜじゃがいもとひじきが一緒に調理されているのかということに興味を持ち、今回の研究テーマにしました。
 研究方法は、先行研究の調査や地域料理の文献調査をデータ化し、分析することです。
 中間報告では、御師の活動や御師料理についての調査を報告しました。現在も御師を続けている方々の活動がとても貴重だということを知り、さらに歴史の分析が欠かせないとわかりました。
 中間報告以降は、文献調査でじゃがいもとひじきの歴史を追い、山梨県に入ってくるまでのルートをたどりました。そして、全国でじゃがいもとひじきの煮物が食べられていたのは、山梨県だけだったのか?という疑問も検証していきます。また、富士吉田市には欠かせない開山祭は、富士山に感謝し富士登山の無事を祈ってお焚き上げが行われる行事です。この歴史を調べ、じゃがいもとひじきの煮物との関わりを調査します。実際に、富士吉田市の方々が「じゃがいもとひじきの煮物」を食べているのかをヒアリングするため、フィールドワークを行いました。ここでは、現在も御師の活動をされている方や富士吉田の道の駅、スーパーを中心に調査を行い、分析し文献だけではわからないリアルな体験ができました。これらのことから、「じゃがいもとひじきの煮物」ができるまでを考察します。



富士太々神楽の食事から見る日本の食文化
〜御師料理の保存と継承〜


 「いただきます」という言葉に代表される日本独自の食に感謝する気持ちや、食事の場におけるコミュニケーションを大切にするべきではないかと考えた。きっかけは、御師料理である。御師料理というのは、御師町に住み、富士山参詣者の宿泊や食事の世話をはじめ、神職者として集落の神事や行事を長年支えてきた御師の方々によって形成されたものである。富士山は、日本国内はもちろん、海外でも日本の象徴として広く知られている山だ。古くから信仰の対象として、人々は富士山に畏敬の念を抱き、崇拝してきた。山梨県富士吉田市は、そんな富士山の麓にある。そしてそこには、室町時代から続く御師町が今も大切に残されており、富士山信仰を中心とした年中行事や、富士山に育まれた自然観、生活観による独自の文化が存在する。その中で私が着目したのが、富士太々神楽奉納の際の食事である。現在の日本は世界的に見ても食が豊かな国である一方で、食品ロスや個食など、食生活の変化に伴って生まれた問題を数多く抱えている。今こそ、一度日本の食の原点を見直すべきではないか。
 御師料理は、神に感謝し、神人共食を行うことが基底にあるため、神事における神饌や直会として用意される食事も特徴の一つとして挙げられる。富士太々神楽奉納の際も直会が行われ、日本料理の原型ともいわれる本膳形式の食事とともに、神人共食が行われてきた歴史がある。この食事に関する記録には、現在ではあまり使われていない儀礼や料理の名称、食材名が並んでいる。それらの言葉について文献調査を深め、内容を少しでも明らかにし、日本の食文化を見つめ直す。方法としては富士吉田市の日常食や行事食との比較と、他地域の太々神楽との比較を行う予定だ。そして、食へ感謝する気持ちも含めた生活文化の継承を考え、今後の地域支援に繋げたいと考えている。