平野覚堂ゼミ■ビジュアル・コミュニケーション研究室
目で味わう装飾菓子
─マジパン細工で表現する和歌の世界─
ケーキには、人を笑顔にする力がある。それは、食べて美味しいという理由だけではない。見た目の楽しさや美しさの中にも、人々の笑顔を引き出す力があると考える。
昨年度、学園内留学制度で製菓学生として過ごし、食べる事を前提としない「装飾菓子」に出会った。装飾菓子といっても、飴細工やシュガークラフト、チョコレート細工など、素材や形、表現方法も多種多様であるが、そこには確かに、見るものの足を止めるような魅力があった。そんな中で私は、アーモンドや砂糖・卵白が原料の、ドイツ発祥の洋菓子である「マジパン」を使った「マジパン細工」で、ジャパンケーキショーという洋菓子コンテストに挑む機会を得た。作品作りの苦労もあったが、それを上回る達成感や楽しさも学べた貴重な経験だった。会場にずらりと並ぶマジパン細工作品は壮観だったが、その光景に私は少し違和感を覚えた。童話やクリスマスなどのイベントをモチーフにしたものが多く、メルヘンチックな作品ばかりであったのだ。そんな光景を見て、もっと日本らしさや造形への意味が込められた作品があってもいいのではないかと感じ、マジパンの新しい形を模索し、表現の幅を広げたいと思い至ったのである。
違和感を打開するヒントは、和菓子実習にあった。和菓子には、日本文化を象徴する四季折々の多彩な表現や美しい見た目、そこに宿る意味や菓銘など、シンプルな造形の中に奥深い魅力があることを知った。中でも上生菓子によく用いられる桜は、咲き始めから散っていくまでの意匠に様々な銘がつけられ、季節を味わう菓子として特に親しまれてきた。和菓子には、季節を感じ“目で味わう”という装飾菓子の本質があると感じた。そして、マジパン細工でも和歌などをモチーフに、和菓子のような菓銘や意匠を取り入れることで、新たな魅せ方を提案できるのではないかと考えた。
中間発表では、菓銘の由来づけとなる和歌を「百人一首」に絞り、桜を詠った二首を選定して、マジパン作品の製作を行った。本発表では、そのうちの一首を改良した作品を、再びジャパンケーキショーに出品し、あのメルヘンチックな作品が並ぶ中に置いた場合、洋菓子としてどう評価されるのかを検証し、考察していく。最終的に、私の思い描く「日本らしい美しさ」をもつ装飾菓子を、コンテストのルールに捉われずに製作する。食べることを前提として作られていない装飾菓子ならではの価値や位置付けを再確認し、目で味わうことのできる新たな洋菓子の魅せ方の一端を提案したいと考えている。
昨年度、学園内留学制度で製菓学生として過ごし、食べる事を前提としない「装飾菓子」に出会った。装飾菓子といっても、飴細工やシュガークラフト、チョコレート細工など、素材や形、表現方法も多種多様であるが、そこには確かに、見るものの足を止めるような魅力があった。そんな中で私は、アーモンドや砂糖・卵白が原料の、ドイツ発祥の洋菓子である「マジパン」を使った「マジパン細工」で、ジャパンケーキショーという洋菓子コンテストに挑む機会を得た。作品作りの苦労もあったが、それを上回る達成感や楽しさも学べた貴重な経験だった。会場にずらりと並ぶマジパン細工作品は壮観だったが、その光景に私は少し違和感を覚えた。童話やクリスマスなどのイベントをモチーフにしたものが多く、メルヘンチックな作品ばかりであったのだ。そんな光景を見て、もっと日本らしさや造形への意味が込められた作品があってもいいのではないかと感じ、マジパンの新しい形を模索し、表現の幅を広げたいと思い至ったのである。
違和感を打開するヒントは、和菓子実習にあった。和菓子には、日本文化を象徴する四季折々の多彩な表現や美しい見た目、そこに宿る意味や菓銘など、シンプルな造形の中に奥深い魅力があることを知った。中でも上生菓子によく用いられる桜は、咲き始めから散っていくまでの意匠に様々な銘がつけられ、季節を味わう菓子として特に親しまれてきた。和菓子には、季節を感じ“目で味わう”という装飾菓子の本質があると感じた。そして、マジパン細工でも和歌などをモチーフに、和菓子のような菓銘や意匠を取り入れることで、新たな魅せ方を提案できるのではないかと考えた。
中間発表では、菓銘の由来づけとなる和歌を「百人一首」に絞り、桜を詠った二首を選定して、マジパン作品の製作を行った。本発表では、そのうちの一首を改良した作品を、再びジャパンケーキショーに出品し、あのメルヘンチックな作品が並ぶ中に置いた場合、洋菓子としてどう評価されるのかを検証し、考察していく。最終的に、私の思い描く「日本らしい美しさ」をもつ装飾菓子を、コンテストのルールに捉われずに製作する。食べることを前提として作られていない装飾菓子ならではの価値や位置付けを再確認し、目で味わうことのできる新たな洋菓子の魅せ方の一端を提案したいと考えている。
台所に向き合えば
高校時代、周りにいる人たちは「他者」という言葉を日常的に使っていて、気がつくと自分もこの言葉を使うようになった。当時から自分と他者の関わりについてばかり考えていた記憶がある。高校生活で植え付けられたこの言葉は、大学に入学してからも自分の中に在り続けてきた。それから、出会う人たちに対して「どんなことを考えている人なのだろう」「どんな暮らしをしている人なのだろう」などと気になるようになった。そんなこといちいち気にする必要はないことかもしれないだろうし、考えすぎると無駄に疲弊するだろう。しかし、気になってしまう。なぜ、人の考えや暮らしが気になるのだろうか。それは他者の新しい一面を知ることで、自分にはない考え、あるいは自分と似通った考えに触れることができて楽しいからだ。
他者は何を考え、どのような暮らしをしているのかについて知る方法として、台所に注目することにした。台所は暮らしの一部であり、暮らしている人の個性が出る場所だと考えたからだ。プライベートな部分に踏み込むわけであるから、普段知ることができない他者の一面が見られる。例えば冷蔵庫。扉を開ければそこで暮らしている人の食生活が分かる。冷蔵庫だからといって必ず食材を入れているとも限らない。食器棚にある食器や置いてある調味料からも、そこで暮らしている人のこだわりが見えてくる。
中間発表では6人の台所取材を行い、他者の新たな一面を見出すことができた。取材はこれまで自分の人生に関わりのあった人たちを対象としているが、初対面の方の台所も取材する機会が与えられた。本発表では、中間発表後に新たに取材した台所とそこで暮らす人を紹介する。台所がただの調理スペースではなく、他者を知ることができる場所であることを感じてもらえたら嬉しい。
他者は何を考え、どのような暮らしをしているのかについて知る方法として、台所に注目することにした。台所は暮らしの一部であり、暮らしている人の個性が出る場所だと考えたからだ。プライベートな部分に踏み込むわけであるから、普段知ることができない他者の一面が見られる。例えば冷蔵庫。扉を開ければそこで暮らしている人の食生活が分かる。冷蔵庫だからといって必ず食材を入れているとも限らない。食器棚にある食器や置いてある調味料からも、そこで暮らしている人のこだわりが見えてくる。
中間発表では6人の台所取材を行い、他者の新たな一面を見出すことができた。取材はこれまで自分の人生に関わりのあった人たちを対象としているが、初対面の方の台所も取材する機会が与えられた。本発表では、中間発表後に新たに取材した台所とそこで暮らす人を紹介する。台所がただの調理スペースではなく、他者を知ることができる場所であることを感じてもらえたら嬉しい。
無機質と食と美と
─日本の家庭料理、一汁三菜の創作─
「無機質」という言葉は、一般的に食べ物に馴染まない言葉である。しかし、近年現れた「無機質カフェ」に見られるように、食業界において「無機質」という言葉は、必ずしもマイナスではなく、むしろプラスに捉えられる場面にも出会う。それは有機的な食に対する異化効果を狙ったもののように見えるが、主に食空間に限った現象であるとも言える。しかし私は、食空間だけでなく、食そのものにおいても「無機質」がプラスの働きする可能性もあるのではないかと考え、中間発表では、食における「無機質」の可能性を、五感の芸術とも呼ばれる和菓子によって表現しようとした。私はそこに、美術作品の美しさ、無機質な雰囲気を表現したつもりだった。しかし、和菓子はそもそもシンプルなデザインのものが多く、もとからあまり温かさを感じる食べ物ではないため、自分の表現したかった無機質な食を十分表現できたとは必ずしも言えなかった。
実は、この研究は最初、日本の家庭料理をモチーフにしていた。私は和菓子で表現できなかったことを表現するために、そこにもどり、また作り始めることにした。私たちは日常になじみすぎた日本の家庭料理を食べるときに、もう新鮮さを感じることが無くなってきてしまっている。その料理を見ただけでどんな味がするのか、どんな食感か、想像することができてしまう。この当たり前になっている料理の見た目を変化させることで新しさを感じる和食を作ることは可能なのか。新しい和食の形を作りたいのではなく、日常的な日本の家庭料理を変化させることで、そこに新しい感情を持つことができるのかを製作を通して考えることにした。
名前を聞いたときに頭の中で連想される料理と実際に出てくる料理との間で、よりギャップを感じてもらうことを目指し、「無機質」をコンセプトに日本の伝統的な食事スタイルである「一汁三菜」をつくった。この料理を見た時に、「どんな味がするだろう」、「面白い、食べてみたい」など、普段家庭料理を食べるときに抱かない感情を抱いてもらえたら嬉しい。私たちの日常になじんでいる日本の家庭料理から温かみを除き、無機質な新たな形を生み出すことにより、日本の食を普段とは違う方向から見ることは可能になるのだろうか。
実は、この研究は最初、日本の家庭料理をモチーフにしていた。私は和菓子で表現できなかったことを表現するために、そこにもどり、また作り始めることにした。私たちは日常になじみすぎた日本の家庭料理を食べるときに、もう新鮮さを感じることが無くなってきてしまっている。その料理を見ただけでどんな味がするのか、どんな食感か、想像することができてしまう。この当たり前になっている料理の見た目を変化させることで新しさを感じる和食を作ることは可能なのか。新しい和食の形を作りたいのではなく、日常的な日本の家庭料理を変化させることで、そこに新しい感情を持つことができるのかを製作を通して考えることにした。
名前を聞いたときに頭の中で連想される料理と実際に出てくる料理との間で、よりギャップを感じてもらうことを目指し、「無機質」をコンセプトに日本の伝統的な食事スタイルである「一汁三菜」をつくった。この料理を見た時に、「どんな味がするだろう」、「面白い、食べてみたい」など、普段家庭料理を食べるときに抱かない感情を抱いてもらえたら嬉しい。私たちの日常になじんでいる日本の家庭料理から温かみを除き、無機質な新たな形を生み出すことにより、日本の食を普段とは違う方向から見ることは可能になるのだろうか。
にっぽん脇毛カルチャーにおけるクリエーション
人生、必ずしも「こうあるべき」姿は存在しないのではないか。近年、グローバリゼーションや多様性が謳われている一方で、私たちは、これらの言葉に自分の意思を委ねすぎてはいないだろうか。しかし私は、自身の日常生活で、見過ごさずにはいられなかった違和感や問題意識を言葉で伝え、あるいは人生の核となるテーマを生み出し、デザインの力で人の心を動かしたい。これらの疑問や探究心から、この研究は始まった。まず初めに「なぜ脇毛か」ということを説明したい。私は、本学でジェンダー・セクシュアリティ論を受講したことをきっかけに、性教育が人間の行動や存在そのものについての学びでもあることを「どうしてもっと早く教えてくれなかったのだろう」と、身勝手に恨んだ。そして、自分の身体と相手を大切にするための本質的な考え方を、国籍、性別、年齢問わずすべての人に身を持って伝えることがしたいと考えた。それこそがこれまで修得してきた学問の意義であると感じた。体毛はほとんどすべての人に生えている。しかし、脇毛への不快感や女性が脇毛を生やしていることへの抵抗が拭えない。その根底には、学校教育、家庭環境、メディアによる価値観の刷り込みが原因にある。本研究では、脇毛をモチーフとしたデザインが及ぼす周囲への影響、脇毛の印象を変革する方法、幼少期から始める視点拡大を探る。本研究への理解を深める考え方の一つとして、仮に脇毛を剃らずに伸ばしたままでいれば、脱毛に通う必要がないといえる。そして、それは「生えている」のではなく、「生やしている」というように、見方や受け取り方を変える柔軟性を持つ感覚が日本人には少ないのではないかと疑問に感じた。文化庁によるとフランス、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、中国と比較して文化予算額は日本が最も低い。(文化庁,2016)しかし私が研究方法の一つとしてイラストやデザインを使って表現する理由は、受け取り手が既存のフィルターを取り払い、感覚を研ぎ澄ませ想像し、それでも揺るぎない主張を持つことを期待しているからである。脇毛を生やすことは一つの主張である。日本人は同質化が過ぎるが故に、討論や会議が苦手である、というのはよく聞くことだ。これに対する危機感こそが重要なのであって、脇毛はあくまで主題であり、研究の本当の目的は他者とのコミュニケーションについてである。そこで私は、子どもと大人が対象の、脇毛を主題とした絵本を制作し、それを使って人がコミュニケーションする機会を生みだすことにした。