令和3年度 食文化栄養学実習

平野覚堂ゼミ■ビジュアル・コミュニケーション研究室


雑草食べたい
─丁寧に扱う雑草めし─

  「雑草食べたい。」
  そんなことを考える人は、今の日本ではいないだろう。それは、栽培環境が整っていて、海外からの食料供給が十分に満たされているからこそ言えることだ。スーパーやコンビニで食材を購入することができ、正しい食料の選択をすれば、私たちの健康的な食生活は確保される。だが、特に依存しきっている海外からの輸入食材が未来永劫安定して行われていくのかというと、声を大にして「はい」とは言えない。この飽食の時代で海外からの供給が途絶え、日本でも十分食料が手に入らなくなってしまったとしよう。そうなったときに、私たちはどこから食料を調達して生活するのか。現代の私たちに、万が一の時に生き抜く力は備わっているのだろうか。そこでふと道端に生えている雑草に目が入る。
  「雑草って食べられないのかな…。」
  そんなおかしなことを思いつく。無作為に根強く生え続けるそいつらは、多くの人から嫌われている。しかし、「雑草」の定義について考えてみると、利用価値のあるものであれば生えている場所によっては「野草」として認識される。その代表例は、ヨモギやノビルだ。ならば、毒がないものであれば使い方次第で、「野草」として食材の代替となり料理に使うことはできるのではないか。前回は豊富な食材でアレンジの利くパスタを土台に調理をしたが、本発表ではそれぞれの雑草の特徴を生かし、擦る・漬けるといった調理法を行い、さらに応用を取り入れた作品を制作した。私は、「雑草を食べよう!」と言いたいわけではない。もしかしたら食材の可能性が広がるかもしれない、と気楽に感じていただければありがたい。あなたのすぐそばにも、意外と食材は眠っているかもしれない。

夜な夜な亜菓子“丑三つ堂“

  和菓子を選択することが減った現代、私は和菓子における伝統と新しさの両立を提案する。なぜなら新しい和菓子には和菓子でありながらも、選びたくなる魅力が必要だからだ。これらの和菓子を私は「亜菓子」と名付けた。
  なぜ和菓子の需要は減少傾向にあるのだろうか。食の選択肢増加、健康志向の高まりによる意識変化なども原因の一つだ。しかし「和菓子」という存在に魅力を感じられないことが根本的な原因なのではないだろうか。砂糖が貴重な時代は「甘い」だけで魅力的な存在とされたが、そのような時代は終わったのだ。和菓子を好んで食べない20代からは「単調な甘さと食感が飽きる」、「敷居も値段も高そうで、自分では選ばない」といった声が挙げられた。味や見た目以外に「自分は和菓子市場の対象者でない」という意識があるのだ。近年はこのような印象を脱却するため、クリームやチョコレートなどの洋菓子材料を用いたものや、SNS映えする奇をてらったものも見受けられる。これらの中には、和菓子の歴史の中で築き上げてきた美味しさ、美しさ、繊細さにかけるものも存在する。
  そこで現状の和菓子における問題を解決し、変化を加えた新しい和菓子「亜菓子」を作成した。「亜」という漢字は次ぐ、準じるといった意味を持っている。いずれ和菓子の新定番になるようにという思いを込め「亜菓子」とした。作成する上で以下の3点をポイントとした。1、メリハリと新しさを併せ持つこと。2、和菓子でありながらも現代の人々に合うこと。3、和菓子好きもそうでない人も魅力を感じられること。これらのポイントを取り入れながら既存から派生させたものとオリジナル、2通りの「亜菓子」を作成した。

食から見るファンタジー

  夕食に出された海老の味噌汁は、まるで島のようだった。味噌汁に浮かんでいる海老の頭や大根が、海に浮かぶ島々のように見えた。そういえば最近、このような身近なものからアイデアを出すことができていない。子供の頃は、空に浮かぶ雲がふわふわの綿菓子のように見えたり、レンガの壁が巨大な板チョコのように見えたり、泥水を味噌汁のようにしておままごとをしたりしていた。毎日の生活の中から、ファンタジーな風景を想像していた。そういえば、最近の子どもたちはどんな発想をするのだろう。私が小さかった頃に比べて、様々なコンテンツが手に入りやすくなっているから、もっとユニークなアイデアを出す子供が増えているのではないかと思っていた。しかし、近年は科学技術の発達により、子どもの想像力が低下しているそうだ。
  自分が幼かった頃は、今のように簡単に情報にアクセスできる端末が普及していなかったため、自分で考えるというプロセスが必要だった。今は、試行錯誤することなく、検索すれば何でもビジュアル化されて出てくる。
  想像力は大人になる上でとても重要な役割を果たす。そのため、子どもたちの想像力を養う機会が減っているという問題に対して、少しでもその機会を増やしていくべきだと思う。そこで、冒頭に書いた「海老の味噌汁が島に見えた」のように、毎日の食事のシーンから、想像力を働かせることができないかと考えた。   想像力をかきたてる機会を増やすために、1日3回触れる身近なもので、種類も豊富な「食」と「ファンタジー」をテーマにしたイラストを制作することにした。なるべく身近なものをモチーフにして、箱庭のような狭い空間ではなく、開放的な世界として描いていく。子どもだけでなく、多くの人に、日常的によく触れるものに対して、新しい視点や気づきを感じてもらいたい。

ふるさと民話膳

  地域振興のためには地域住民の協力が必要不可欠だと言われる。住民自らが地域の魅力を理解し、主体的に関わっていくことで、持続的な地域振興が可能になるからだ。地元を盛り上げ外部にアピールしたいと思う人々の「地元愛」は、地域のためになくてはならない感情である。しかし、そのような「地元愛」を持っている人は少ない。幼いころから慣れ親しんだ地元という土地は、人々にとってもはや当たり前で面白みのないものだからだ。そこで私は、人々が改めて地元に興味を持つための新鮮なきっかけを与える必要があると考えた。それが「民話」である。
  民話とはその地域で伝承されてきた説話である。土地の成り立ちを語ったものや地名の由来となったような話も多く存在し、民話からはその土地の背景や歴史を読み取ることができる。土地に根差した物語であるが現代の人々にとってあまり身近でない「民話」は、地元を見る人々の視線に新たな発見を与えてくれるのではないだろうか。
  今回は、この「民話」を地域の食材を使って表した、デセールコースを制作した。コースという形にすることで、地域に伝わる複数の民話を関連付けて表すことができる。土地同士の思いがけない繋がりは、人々にとって地元に対する新たな発見になるはずだ。また、地域の魅力は一視点のみから語られるべきものではない。デザートとして表し、民話だけではなく地域の「食」という視点も含むことで、より包括的に地元を体感できるようになるというのも狙いの一つである。「食で表された民話」という新たなきっかけにより、当たり前になってしまった地元という土地に対する人々の興味を改めて引きだす。その興味はきっと、地元を盛り上げたいと思えるような深い愛着「地元愛」に結びついていくだろう。

駄菓子屋コミュニティ継承

  幼い頃、誰もが訪れたことがある駄菓子屋。小銭を握りしめて駄菓子屋へ足を運んだ思い出、喧嘩をしていたら止めてくれる店主のおじいちゃん・おばあちゃんとの思い出、下校後に駄菓子屋で友達と会うのを楽しみにしていた思い出など人それぞれ駄菓子屋での思い出は異なる。大人になってから振り返ってみると、駄菓子屋の客のほとんどが小学生前後の子供達であったとわかる。このように、駄菓子屋ではこどもたちを中心としたコミュニティが育まれていた。ここでいうコミュニティを、私は「駄菓子屋コミュニティ」と呼ぶことにする。しかし、この駄菓子屋コミュニティは、現在減少傾向にある。その要因として、少子高齢化、核家族化、たくさんの習い事、携帯電話やスマートフォンの普及、携帯ゲーム機やオンラインゲームの普及などがあげられるが、他にも様々な要因が関係していると考えられる。このように、駄菓子屋コミュニティの減少には、近代から現代までの広い意味での近代化の影響が大きく関わっている。そして、当然ながら、この駄菓子屋コミュニティの減少はすなわち駄菓子屋の減少を意味する。そこで、私は駄菓子屋にインタビューをし、動画制作することによって、駄菓子屋や駄菓子屋コミュニティの減少を示すことにした。動画では、駄菓子屋の店主のインタビューをして、店主等が考える駄菓子屋への想いや、駄菓子屋の地域での影響がどのようなものだったかを示したい。一般における動画表現が普及した現代だからこそ、このような動画によるメッセージはこども・おとなどちらの目にも届くのではないかと考える。こども単独で見るだけでなく、親子で一緒に見ることで、駄菓子屋を訪れたいという思いが湧くことを想定している。今までおやつをスーパーやコンビニで買い物ついでに買っていたのであれば、動画をきっかけに親子で駄菓子屋をたまには訪れ駄菓子屋に触れて欲しい。

アトピー食生活改善記録

  アトピー性皮膚炎は食事を変えることで治療できる。きっかけは母から聞いたこの話だった。小さい頃から体中をかきむしることが当たり前だった私にとって、すぐにでも治療を受けてみたいと思う話だった。しかし、この方法は食事療法を主体としており、入院して治療を行わなければいけなかった。私の現状では、入院は難しい。ならば、食事に除去食を取り入れて、生活全体を改善することで食事療法に近いことができるのではないかと考えた。そこでこのアトピー食生活改善の生活を始めた。   使ったことがない、食べたこともない食品を手探り状態で作りながら、この生活を始めて一年が経つ。失敗して食べられないことやせっかく作ってもおいしくできないことも毎日記録し、今ではおいしく作ることができるようになった。ブログでは、月に一度の頻度で、反復して作れるように考えたレシピを掲載してきた。アトピー性皮膚炎という病気自体がコンプレックスであり、薬だけの治療はよくなっている気がしていなかった。しかし、この実習では試行錯誤しながらであったため、症状に劇的な変化は得られなかったが、充実していた。今回の発表では、この一年を一冊にまとめた日記を通して、毎日を振り返りながら食生活を紹介していきたい。   もともと病院で行うはずの治療であり、薬以上に効果が得られる可能性も低く、この食生活だけでアトピー性皮膚炎を治すことはもちろん不可能に等しい。しかし、私自身が今より少しでもアトピー性皮膚炎が改善したと感じられたのであれば、ただ薬に頼ることしかできず、症状の辛さに悩んでいた自分にとってはよいものだ。私の発表を聞いた人がこのような生活も辛いものではなかったのだろうと感じてもらえたらよいと思う。

気ぬけたヴィーガンでほんのちょっと晴れてみる

  現代、多くの食文化や食思想が混在し、それらに同時にアクセスできてしまう私たちにとって、そのつながりをシンプルに捉えることは意外と難しい。それは、同時に、各々の好みや行動スタイルに合わせて、「食べること」を自由に選ぶことができる、ということでもある。しかしそれらが原因となって、食に対して「自分がどういった『モノ』を食べているのか」という疑問、「食べる『コト』に対しての違和感」の大きく分けて2つの問題で悩まされる人が増えているのではないだろうか。そこで一番見失ってしまうのが「自分」という存在だ。「自分」が今一番に何を欲し何を感じているのかにフォーカスしていく機会が少なくなってしまっては、まるで食に支配されているようだ。まさに私がその支配下で食に触れていた。要するに、溢れる情報に溺れ、食を心から楽しめない人になってしまっていた。そこで偶然見つけたのがヴィーガンである。動物搾取をせず、完全菜食主義の食生活を送るライフスタイルのことだ。食べ物が一体何で作られているのか、どういった時を経て私たちの食スタイルが築かれてきたのか、こういったことを見直すきっかけとしてヴィーガンはとても最適だった。体に良い悪い、健康不健康。このようなジャッジは一旦置き、自分の心の声に向き合うことで断然ヘルシーな人間らしさを思い出せるものであった。
  ヴィーガンはまだまだ世の中に浸透しておらず、馴染みやすさを抱く人は限られている。また、ヴィーガンの定義は確立されていないため、難しく捉える人も存在している。その両者どちらの疑問も解消できるような入口を示していきたい。流動的な人間の感情と同じように、食の嗜好ももちろん変化する。晴れの時もあれば雨の日もある。どんな自分でも等身大で向き合えるきっかけをヴィーガンを通して知ってみてはどうだろうか。

画欲食欲

  現代、多くの人にとって、飲食店を知るきっかけは、飲食店検索サイトやインスタグラムなど、インターネットの情報である。私たちがネットで頼りにする情報は、レビューの数字や他者の感想など誰にでも再現可能な記号と店の一部を切り取った写真である。しかし、その情報だけを参考にすると、他の人が良いといったものが良いものと思い込み、自分のものさしで飲食店を判断できないのではないだろうか。
  逆に、何も情報を持たずに飲食店に入ろうと思うとき、店先の小物であったり、ちょっとした照明の感じであったり、へたしたら隣のお店を参考にするかもしれない。このように、飲食店は、料理や内装の一部だけではなく、店構えや照明など様々な要素で構成されている。私たちは、これらの要素をまとめて飲食店の雰囲気として捉えているのではないだろうか。私たちが本当に知りたいと思うような飲食店の雰囲気は、飲食店検索サイトなどだけでは伝わりにくい。それでもなおネット上でよりよく伝わる方法があるとしたらそれはどのようなものだろう。それを私は、飲食店の店構えから店内の装飾にいたるまで丸ごと見られるようにすることだと考えた。そうしたものがあればネット上でも、実際、町で出会ったときのような共感、興味を感じられるだろう。例えば、飲食店検索サイトの情報はパンの味や見た目の情報が多く、パンを購入したい人にしか注目されないが、飲食店の雰囲気丸ごと伝えることができれば、情報を見た人がパンだけではなく、動物が通っていそうな温かい雰囲気に注目し、来店につながるかもしれない。
  表現の方法はアニメーションを選択した。誰にでも再現可能な記号ではなく、お客さんの行き来であったり、昼と夜にみせる表情の変化であったり、お店の動きも飲食店の雰囲気に含まれていると考えたからである。私が制作したアニメーションを見て、新たな飲食店の見方や楽しみ方を発見してほしい。

無彩色の世界でおいしさを表現する
─漫画の中の食を参考に─

  食べ物のおいしさを判断するとき、五感の中でも「視覚」の果たす役割は特に大きいとされています。例えば、青々と色合いの鮮やかなレタスと変色し茶色くなっているレタスではどちらのほうが「おいしそう」だと感じるでしょうか。多くの人が青々と鮮やかなレタスのほうが「おいしそう」だと感じるのではないでしょうか。たとえ味や香り、音や食感といった情報がなくても、視覚から得られる情報だけで食べ物のおいしさを判断することもできるのです。視覚から得られる情報の中でも「色」は特に重要な要素だと考えられます。では、「食」から「色」という要素がなくなったとき、そこにおいしさを感じることはできるのでしょうか。
  ここでは、漫画の中にみられるおいしさの表現に着目しました。食を題材にした漫画は数多く存在し、その中には様々な食べ物や料理が登場します。そしてそれらの多くは無彩色で描かれています。まさに、「食」から「色」という要素がなくなった状態だといえます。食を題材にした漫画を読んだとき、「色がないからおいしくなさそう」と感じる人は少ないのではないでしょうか。フィクションだから食べ物に色がなくても違和感を覚えないのかもしれません。しかしそれ以前に、漫画の中には食べ物を「おいしそう」だと感じさせる「色」以外の要素があるのではないかと考え、漫画の中にみられるおいしさの表現をストーリー表現・リアクション表現・しずる感の3つに分類しました。これらの表現を参考に、「無彩色の料理」を製作しました。無彩色の料理だけでは到底おいしそうだとは感じられません。漫画の中にみられるおいしさの表現を利用することで「おいしさ」を感じさせる「色」以外の視覚的要素について考察し、無彩色の世界でおいしさを表現する方法について探ります。

野菜ヲ贈ル

  祖父母が野菜を育てていることから、「野菜の"あたたかさ"を届けるをコンセプトに、野菜のネット通販サイトを立ち上げ、運営をしている。はじまりは、私がネット通販サイトを利用したときの事。その時、私の手元に届いたのは、商品と、商品の説明が小さい文字でびっしりと書かれた説明書が入っている段ボールだった。そこで私は、少し違和感を覚えた。インターネットが発達し、ネット通販サイトの需要も高まっているはずなのに、利便性のみが高まっているのではないかと。そこで、通販サイトを利用する人が求めている要素や、私が実際に通販サイトを利用して感じた不親切さを改善し、利用者のニーズを満たすことのできる付加価値を"あたたかさ"と定義付け、便利なだけではない、利用者が心躍るような体験ができるように、通販の入り口となるwebサイトを制作・運営をすることにした。
  ホームページは、コンセプトにあうようなデザインにしつつも、使いやすさを考え、サイトの作りはとてもシンプルなものにした。また、購入者により安心していただけるように、育てている環境の写真を多く使用している。そして、利用者の入り口となるようにインスタグラムも開設し、新しく野菜を販売する際や、ホームページのNEWSの欄を新しく更新する際の告知をし、野菜の保存方法やレシピの一部の掲載もしている。また、販売の際にはメッセージカードやレシピカーを添え、配送をし、このメッセージカードは、手書きの部分も加え水彩絵具も使用し、コンセプトや想いがより伝わるものにした。
  インターネットが発達し、ボタン一つで簡単に商品が購入出来る現代。また、新型コロナウイルスの影響も相まって、人との交流がより少なくなっている現代。そんな時代の中で、まるで人と対話をし、野菜購入したような、心も体も元気になるような、そんな体験を提供することを目指した。

EARTHLINGS
─喰い、喰われる循環─

  地球上の生物、とりわけ動物は「喰い、喰われる」というつながりの中に生き、様々なルートを経て日々循環している。しかし、同じく地球上に生きている人間はどうか。「喰う」という概念を当たり前にもつ一方で、その逆の概念は持たないのではないか。我々は食前、常習的に「いただきます」という言葉を口にする。大抵は、眼前にある食材への感謝を込めたものだろう。だが、私はこれを極めて一方的な台詞だととらえている。なぜなら、人間には日常的に「いただかれる」概念など存在しないからだ。また、時として肉食動物が人間を襲うと大々的なニュースになるが、これについても同様だ。「喰われる」概念を持たない人間にとっては、動物に襲われることなどあってはならない有事であり、もはやおぞましいとさえ感じられる出来事なのだ。こうした現代における人間の観念は、「喰う」だけの立場に留まった「一方的な捕食者」といっても過言ではない。
  この現状に対し、本研究では人間を循環の一要素として捉えた「本来の食物連鎖の在り方」を示す。ここでいう「本来の食物連鎖」とは、従来の人間を頂点とした食物連鎖の概念からは離れ、「喰い、喰われる」というつながりの中に人間を捉えたものである。研究の表現媒体については、閲覧者が効果的に概念を受容できるよう、写真やイラストを中心に展開したビジュアル作品を用いる。本発表では、既存シリーズに加え新たに制作したテーマの作品も紹介予定だ。
  最後に少しだけ、テーマ名の「EARTHLINGS」について触れておく。これは、地球上の生物といった意味合いを持ち、人間もまた紛れもない「EARTHLINGS」であることを示している。発表をご覧いただける際は、ぜひ人間も他種も変わらない、同じ地球上の生物だととらえてみてほしい。

紡ぐ、町中華。

  街中には飲食店が溢れ、日々生き残りの競争が行われる現代。人々は何を基準に店選びを行っているのだろうか。そんな事を考えながら私は歩いていると独特の雰囲気を持つ店の前でふと足を止めてしまった。近年、餃子やネオ居酒屋ブームが取り上げられているが、私が見たそれは煌びやかなものではなく明らかに暖簾に年季が入っている様な外観。町中華は昭和から長年愛され続けている中華料理中心の大衆食堂だという事を調べて行くうちに知った。
  そこには突然唐揚げが怖いと言い始めるおっちゃんがいたり、〆切と書いてあるのに、おそるおそるドアを開けると営業しているお店があったり、井戸端会議が行われていたり。一般的なカフェや飲食店では起こり得ない様な体験をする事があり、常に何が起こるかは誰も予想が出来ない。しかし、そこには人と人との密接な関わりや温かさがあり、お腹を満たすことは勿論、それ以上に心まで満腹にすることが出来るのだ。
  そんな町中華もこれから先、後継者不足などでそう長く続いていかない私は考えている。そこで私は1人でも多くの人に町中華を紡いで欲しいと考えた。前期にはzineを作成し、町中華での出来事に愛着を持ってもられる様な作品づくりを行った。今回は町中華に対する敷居の高さや、多くの人が抱えているであろうジレンマを解消すべく、ショートムービーと町中華を巡るvlogを作成した。snsが普及している現代、1番構えずに見る事が出来るツールだと考えたからだ。また、製作した動画は実践的に店に入っていける様なコンテンツにした。暖簾をくぐった先はやはり一般的な飲食店とはひと味もふた味も違うが、それすらも楽しいと感じて貰えると幸いだ。料理や外観、装飾物だけではなく人の暖かさに触れる経験をしてほしい。

これもあれもたべもの絵本

  本研究で私は、食品ロスをモチーフとしてこども達に向けた絵本を制作した。この絵本を描くにあたり具体的なモチーフは規格外食品としている。世間では、規格外食品は偏見を持たれることが多い。この絵本を通してこども達にとって規格外食品が少しでも身近な存在になり、それらに対し抵抗がなくなることを期待したい。前回のR3食文化栄養学実習発表会では、「これもあれもやさいたち」という絵本を制作・発表をした。この絵本は主に形が正規品と異なる野菜をモチーフにした絵本で、2・3歳のこどもを対象とした絵本だった。そして今回の発表会ではまた異なる絵本の発表をする。
  それは、「ケーキのお隣さん」というタイトルで、今回はロールケーキの切れ端をモチーフにした絵本である。これは4・5歳のこども達を対象にしているもので、この絵本をきっかけに自分がいつも食べているケーキにそれ以外の部分があることを知ることができるようにした。
  これらの絵本を読んで直ぐに食品ロスを理解して欲しいというわけではない。ただ、絵本が食品ロスという問題に関わる際にイメージの助けになるだろう。
  今回制作した「ケーキのお隣さん」では前回の「これもあれもやさいたち」に比べ、複雑な絵にした。それは、絵をみながら何かストーリーを発見する楽しみを見つけることが絵できるようにとの思いからだ。例えば、「ケーキのお隣さん」はテーブルをメインに描かれているが、その卓上でのものの動きに注目してもらいたい。
  食品ロスは現在、SDGsの観点からも「つくる責任つかう責任」として重要視されている。この絵本で少しでも規格外食品の存在を幼いうちに知り、変わった形の食品を見ることに慣れていって欲しい。

味わうカタチ
─時の流れ─

  同じ料理を食べても全く同じ感じ方にはならない。それは、一口目の位置や口に入る量、食べるスピードなどの「食べ方」が人それぞれ異なるからである。例えば料理の第一印象を決める一口目。食べる位置や量が違うだけで、舌に触れる面積や香りの感じ方が変わるため、全く違う印象を受けることになるのだ。食べる人によって感じ方が異なること、同じ料理でも毎回同じ感じ方をしないことは料理の魅力でもあると思うが、味わいを計算した通り感じさせることができたらどうだろうか。
  世の中にはさまざま料理が存在するが、現代は味よりも見た目やエンターテイメント性を重視している料理が多くあり、それらは需要もある。SNSの影響により、料理・食事のあり方は変化し続けているのだ。さまざまなジャンルの料理がある中で、人間の味覚の感じ方や食べ方に着目した料理があまりないことに私は気づいた。味を重視している料理でも、人それぞれの食べ方の違いで感じ方が変化してしまうなら、料理人によって考えられた「味わい」はひとつではないと言える。味の組み合わせやテクスチャーの変化を楽しむしかけがあったとしても食べ方の違いにより、その「味」を汲み取ることはできないのだ。
  このことから、「食べ方」をコントロールすることができたら、食べた時に感じられる「味わい」もコントロールできるのではないかと考えた。そこで私は、形や大きさ、盛り付け、提供のしかたから食べる時の動作を操作し、たったひとつの「味わい」を作り出し、コントロールしたことで初めてしかけが成立するような料理の提案を行うことにした。どう感じさせたいかを先に考えることで、今までにない新たな視点の料理が生まれるだろう。
  味覚や視覚、あらゆる感覚で計算された料理を楽しんで欲しい。