9月28日は創立記念日

2024.09.27

学園

9月28日は創立記念日

9月28日は本学の創立記念日です。91年前の1933年、学園の前身である家庭食養研究会が設立されました。

誰もが健康にと願い、日本の栄養学の基礎を築いた、本学創立者の香川綾。

そして、戦中でも「もっときれいに」「手軽にできる」ヘアスタイルを考案した、日本の美容家の草分け 山野愛子さん。標準的な型紙の開発により安価で良質な洋服の普及に取り組んだ、日本の洋装化のパイオニア 杉野芳子さん。

食も、美容も、服飾も、人々の暮らしにかかわり、その進展のためには技術の開発、実践と普及のための教育が必要でした。戦中・戦後から激動の1900年代に、生き生きと暮らしやすい社会を目指し、挑戦し創造し続けた3人の生き方と取組みをご紹介します。

日本の栄養学の基礎を築いた
香川 綾(1899-1997)

今から100年前、脚気(かっけ)が蔓延する日本では、栄養といっても、なかなか人々に理解されない時代でした。それでも、本学創立者の香川昇三と綾は、一人でも多くの人の健康を願って研究に取り組み、脚気の治療と予防に貢献しました。綾は、医師でありながら、ご飯の炊き方、胚芽米の搗精法とその栄養価などの研究に取り組みました。胚芽米を取り入れた病院給食で、脚気患者が回復していく姿を見た綾は、その効果に驚きと感激を覚え、病気を予防する栄養学に人生をかけて取り組む決意をしました。

料理の計量化は健康への道。綾は、誰が作っても、何度作ってもおいしい料理に仕上げるために、計量カップと計量スプーンを考案し、食材の分量とともに調味料の分量を記載した料理カード(レシピ)を作成しました。

1928年頃から「主食は胚芽米、魚1、豆1、野菜が4」として、脚気予防の観点から、ビタミンB1が豊富な胚芽米を主食に副食を十分にとることを推奨し、その後も栄養改善活動に尽力しました。1958年には食品の組み合わせの基本となる「四つの食品群」を提案、さらに量の目安を加えた「四群点数法」を1973年に発表するなど、毎日の食品選択で気軽に使える「食事法」を考案し、改良を重ね普及し続けました。

1950年に短大を創設し、1961年に4年制の大学を新設、1969年には大学院修士課程、さらに1989年には大学院博士後期課程を設置するなど、栄養学を基本とした教育に新たな道を拓き、究め続けました。

香川綾のことば

栄養学を生活の中で生かす

栄養学は、学問の進歩とともに、そしてその時代の食生活や環境に合わせて、実行されやすい形にすることが大切です。よく私は、栄養学の知識を「覚えただけで、お蔵入りさせてはだめですよ」と口が酸っぱくなるほど言っていますが、栄養学は生活の中で生かされてこそ、私たちの生命を支えるのです。そう私は考えていたので、その時代の食生活を栄養的なものにする「食事法」を、広く多くの人たちに利用されやすい形にして提案し続けてきました。

香川綾「栄養学と私の半生記」より

●香川綾の生涯はこちら

日本の美容家の草分け
山野愛子さん(1909-1995)

1923年の関東大震災で、一瞬のうち灰と化していく東京の街のなかで被災した女性が河原で髪をまとめ容姿を整える姿を目にしたことで、美容の道を志します。16歳で美容学校へ入学、1924年に山野結髪所を開業。日本初のパーマ指導技術者でもあり、日本にパーマ技術を普及させていきました。

1944年、疎開先の長野で美容を続けるなか、作業をする女性のために「もっときれいに」「手軽にできる」へアスタイルを考案しました。ピンやひもなどを使わずきれいにまとめ上げる「ソフトローブ」、草鞋(わらじ)を編む姿を参考にした軽くて崩れにくく動きやすい「三つ編み」は、評判になりました。

戦後、欧米で最新の技術を学ぶとともに日本の技術を世界で披露しながら、日本の美容教育の理論化とレベルアップ、そして美容事業の拡大に積極的に取り組みました。

1934年に開設した美容師講習所は1949年に美容師養成施設の国の認可を受けて山野高等美容学校になりました。1992年には山野美容芸術短期大学を設立し、初代学長に就任しました

外面の美しさだけにとらわれるのではなく、「美しさは内面から来る」と提唱し、美容を進化させていきました。「茶道」「華道」等があるように美しさへの道があるべきと考え、生涯「美道」を追求し続けました。

「髪」「顔」「装い」「精神美」「健康美」の「美道五大原則」をもとに、美容の理論と実践を通して教育の向上を目指しました。

山野愛子さんのことば

全体的な美しさこそ大事

自分自身が心からそう願わなければ、あたしたちがいくらやっても、その人の本当の美を作ることなんかできやしませんからね。外見の美しさを作るいちばん大事な源泉は、その人が美しくなることを心から望み、そして心が明るく美しくなることなんです。ですから、美容というのは、「人生をどう美しく過ごすか」「人生にどう美を発見するか」という、いわば人生の美学、美容の哲学にまで発展していくべきだと思うんです。

山野愛子「愛チャンはいつも本日誕生」より

●山野愛子さんの生涯
・美容家 山野愛子についてはこちら
・山野愛子 美道~86年の歩み~はこちら

日本の洋装化のパイオニア
杉野芳子さん(1892-1978)

「アメリカに行けば何かあるに違いない」
1913年、単身渡米した時はきものに袴姿でした。「アメリカで身をもって知らされた洋装のよさを、一般の女性にも知らせて、洋服を普及させたい。」帰国後今こそやらなければならない仕事として1926年にドレスメーカースクールを創設しました。
洋服の普及にはアメリカのように型紙を普及させるのが近道だと考え、日本人の体型にあうように、直してまた直して、そしてまた直して、ついに見出した「原型」が、後の「ドレメ式原型」です。

開発した「ドレメ式原型」をもとに型紙を作り、服の形を見極め整えるために必須な仮縫い(フィッティング)に力を入れ、本当にその人に似合う服を作るための服飾教育を展開しました。そして学院創設10周年の1935年には日比谷公会堂で日本で最初の本格的なファッションショーを開きました。

院長になってからもニューヨークやパリで学び、外国の人が考えたものを着るのではなく、日本の生活様式や習慣、気候や体型から考えた、その人にあったデザインが必要という思いを強く持ち続け、戦後、1950年に杉野女子短期大学、1964年に杉野女子大学を開設し学長に就任しました。

和装から洋装へ、道なき道を切り開いてきた情熱は、建学の精神である挑戦(チャレンジ)の精神、創造する力、自立(自己実現)する能力の育成に受け継がれています。

杉野芳子さんのことば

欠点をカバーし特徴を引き出す工夫

世間にはまだお手本になるような洋服もなければ、スタイルブックさえもない。ではそのお手本を学校の中に求めようと思いました。生きた教材になるように、すばらしい洋服を着たすばらしいスタイルの生徒をたくさん仕上げることです。ということは、美人とかプロポ―ションのよさを生徒に求めるのではなくて、その人の欠点をカバーし特徴を引き出して、どうすればよいか、どうすればすばらしく見えるかを研究し、実施指導していくことでした。

杉野芳子「炎のごとく」より

●杉野芳子さんの生涯はこちら

【参考図書】
・香川綾「栄養学と私の半生紀」 1985年初版 女子栄養大学出版部
・山野愛子「愛チャンはいつも本日誕生」 1985年初版 (株)婦人画報社
・杉野芳子「炎のごとく」 1997年第1刷 (株)日本図書センター

この掲載記事は、本学と産学連携協定を締結している株式会社ヤマノビューティメイトグループ様、杉野学園衣裳博物館を訪問させていただいたご縁で学校法人杉野学園様のご協力を得て作成しました。

【記事のお問合せ】
学校法人 香川栄養学園 (女子栄養大学)
広報部 学園広報課
TEL 03-3915-3668  E-mail:gkoho@eiyo.ac.jp