令和5年度 食文化栄養学実習

平野覚堂ゼミ■ビジュアル・コミュニケーション研究室


散歩道にあるそれ食べらるんじゃね

   最近私は、きょろきょろと地面や空ばかり見ながら歩いている。そして、草や昆虫を見つけては立ち止まりこうつぶやく「これ食べられるかな」。なぜこんなことを考えるのか。理由は一つ、食べたことのない食材の味を知りたいという好奇心である。しかし、雑草や昆虫は食べられない、美味しくないという先入観や嫌悪感を持っている人が大半である。これらの感覚は防衛本能として、自分の身を守るため見慣れないものや見目の悪いものは避けるという大切な感覚である。しかし、あまりに強すぎても新たな味わいに出会う機会が狭まってしまわないだろうか。また、スーパーで売られているエビやタコなどもよく見ると結構グロテスクである。しかし、私たちは特に嫌悪感など感じずに食べている。それはなぜか。これらは食べ物であるという前提の認識を持っているからである。つまり、嫌悪感や先入観は自身の知識や認識によって簡単に覆ってしまう脆いものなのである。
   私の主張は、未来の食料源として有効だからとか、美味しいから是非、雑草や昆虫を食べようというわけではない。ただ新たな味わいに出会うことは楽しいと気軽に感じてもらいたいのである。その為私は、雑草や昆虫をただ食べられるという事実を伝えるだけではなく、美しくかつ美味しそうに調理し先入観を乗り越えやすくすることで価値の発見につなげたいと考える。
   例えばコオロギ、素揚げはもちろん出汁をとり上品な味わいのスープにすることができる。ほかにも、たんぽぽの葉はサラダや天ぷらにすることで、程よい苦みが食欲をそそる。中間発表では様々な食材の味わいや調理法を研究し料理を作成した。今回は、先入観を乗り越えた先にある、新たな味わいに出会うことは楽しい、美味しいという価値を共有する為、雑草や昆虫を味わうお店「MICHIKUSA」をオープンした。どうせ食べるなら、楽しく美味しくと気軽に感じてもらいたい。
 味わえばいつもの散歩が少し楽しくなるかもしれない。

わたしと食材といのちと
─「使い残し」から考える食材のいのち─

   私は食べることが何よりも好きだ。たとえどんなに嫌いな食べ物であっても、残すぐらいなら食べるようにしていた。幼い頃から「食べ残し」をしたくないという想いを強く持っていた。そのため、時には友人やクラスメイトの嫌いな食べ物が回ってくることもあった。「食べ残し」というと食育やSDGsをイメージする人が多いかもしれないが、そのような教育的・社会的な影響から「食べ残し」を意識しているわけではない。
   高校生の頃、摂食障害により驚くほど痩せてしまった時期がある。この時、私は生まれて初めて食べることが嫌いになった。しかし、生活が困難な状況に陥ったことで食を拒絶し続けることは不可能だと気づき、改めて食に生かされていることを痛感した。大学生活の中では、実習やアルバイトから自分が作る側の立場になる機会が以前よりも多くなった。それにより、まだ食べられそうな食材が廃棄されていく姿を目の当たりにするようになった。だが、生命を維持している食に対して、このような扱い方は相応しくないのではないかと考えるようになった。こうした食に対するあらゆる想いが募り、全ての食材を丁寧に扱うことを決めた。
   中間発表までは「使い残し」というキーワードを基に、食材との向き合い方について考えきた。その後、禅宗である道元禅師が著した「典座教訓」という書物に出会った。この「典座教訓」とは「どのような食材であっても1つの命であり粗末にしてはいけない」という精進料理の基盤となっている考えであり、私がこれまで軸としていた「使い残し」に通ずるものがあった。そして、「使い残し」を意識しながらそれぞれの食材のいのちを考慮した料理を新たに考案することにした。
   食が豊かになった現代において、1つの食材の代わりになるものは山ほどあるだろう。だが、食材も人間と同じようにそれぞれいのちを持っていることを念頭に置いてみて欲しい。精進料理の食材のいのちを重視した調理法を日常生活に取り入れることで、食材の尊さやありがたみを感じることができるのではないだろうか。 本テーマを通して、「食べ残し」だけでなく、「使い残し」という概念を頭の片隅においてもらいたい。

美味しいの伝達革命

   私は日常生活において食品の味や食感をもっと詳細に知りたいと思う場面がある。例えば少し風変わりな食品がお店に売られていたとする。このような食品を気になったら迷わず購入する人もいるだろうが、非常に気になるけれど購入することを躊躇う人もいるだろう。私はあまり食品選択において冒険をしたいと思わないため後者である。このような状況のとき、その食品の情報を知る手掛かりは食品そのものの見た目か、もしくはその食品のパッケージにある写真と商品名くらいである。その際、味や食感について知ることはできない。しかし私はその食品の味や食感が自分好みであるかどうかをもう少し詳細に確かめてみたいと感じるのだ。
   また、メーカーAのアイスクリームとメーカーBのアイスクリームというように、同じ食品であるが作り手が違うものがある場合、どちらが自分好みなのだろうかと考えることがある。もちろん、両方買って食べ比べをしてしまえば解決するのだが、事前にその食品の味や食感、そしてその違いが情報として分かっていれば自分好みの食品の選択がしやすくなるだろう。そこで私は、実際に食品を食べる前に、その食品の味や食感をより詳細に理解できることを目的とする手法を提案したいと考えた。
   日常的には私たちは、主に言葉を使用することで食品の味や食感を相手に伝達をしている。しかし人間の脳には、言葉よりも絵や図、写真の方がイメージとして伝わりやすく、情報を認識しやすいという画像優位性という特性がある。私は食品の情報の伝達手段を提案するにあたって情報の理解のしやすさを重視したい。そのため味や食感のイメージを図形イラストに変換して記号化し、そこに言葉の表現も添えることによって、見た人が食品の味や食感の情報を知るための手助けをする食品概念イラストというものを制作した。食品概念イラストは、食品を食べた際の味、食感をより詳細に伝えることを目的としている。つまり、食品概念イラストを作ることによって、食品の持つ情報をより解像度の高い状態で相手に伝えることができるのだ。本発表では食品の持つ感覚を伝えるにあたって、多くの人にとって共感性のある表現を収集して視覚言語の共通認識となる文法を作成し、それらを用いて引き続き食品概念イラストの制作を行う。さらに情報をより一層詳細に伝えられる動画「食品概念ムービー」も制作する。

Authentic Sweetsの再構築

   私たちが普段目にするスイーツは、様々な変化を経て現在のカタチになった。これらの要因として考えられるのは、それぞれの生まれた歴史や各国に伝来し、文化が反映された過去、そして時代背景によるものであり、スイーツは嗜好品として私たちの食文化を豊かなものにしている。しかし、近年それらの要因は、蔑ろにされつつあるように感じる。例えばSNSに載せることに特化したインパクト重視のスイーツ、伝統や歴史、宗教などの要素を無視したレシピでその名前を冠するスイーツ、それらが容認されることに対して私は違和感を覚える。私たちは、目の前にあるスイーツの実態を知ることなく完成形として受け身で認識し、消耗している気がしてならない。
   この現状を打破するため、現在「正真正銘」とされているカタチを今一度再構築することで、スイーツの本当に在るべき姿が見えてくるのではないだろうかと考えた。オーセンティックを追求し、それぞれの構成要因やアイデンティティを発見し、具体的な作品に結びつけ、表現することでその根源を見つめ直し、スイーツ自身が持つ価値を再認識できるのではないだろうか。
   中間発表では、日本で古くから親しまれてきたショートケーキを題材とし、歴史や文化的な背景を知っていただくと共にその先にあるオーセンティックな形を模索した。
   今回の本発表では、地域性が顕著に現れたお菓子であるドイツのシュヴァルツヴァルターキルシュトルテ(フォレノワール)と、現在とは異なる意味合いで親しまれてきた過去を持つイタリア発祥のティラミスを題材に取り上げた。今ある当たり前を一度壊し、再構築することで、お菓子の本当の姿が浮き彫りにし、より本物らしさを追求する。また、それぞれのアイデンティティを発見し、それらを具体的な作品を通して表現することでオーセンティックなカタチを改めて模索する。

食事の未来予想図

   現在、私たちは食文化栄養学科で食について学んでいますが、入学前と比べると食環境は大きく変わりました。ウーバーイーツなどのデリバリーサービスが一般化し、サステナブルやエシカルという言葉が浸透したことにより、私たちの食選択への影響が及びました。さらに外食産業や農業ではDXの導入が定着しました。これらの変化の背後には、新型コロナウイルスの影響で急速に非接触型のサービスが増えたことや技術の発展、社会状況の変化や、人々の食選択の変化があります。
   しかし、これまでの私たちの食の学びだけでは、今の食環境に見られる目まぐるしい変化に対応することや、これからの新しい食情報を察知することが難しくなると感じています。トレンドや技術の変化が激しい食の世界から遅れないためにはどうしたら良いのでしょうか。改めて、食についての学びを見直し、未来の食事がどうなるのか、私たちは食の領域にいる身として未来の食事にどのように関与できるのか考察します。
   そのために、今のフードイノベーションに大きく関わっているフードテックをメインテーマとし、実際に筆者がフードテックは現在の食環境へどのように影響を及ぼすのか、私たちの食事はフードテックを介してこれからどのように変化するのか考察します。こうした考察を通じて、新たな技術や新たな食、新たな食文化への取り組みかたや姿勢を私たちは得ることが出来るのではないでしょうか。
   中間発表では「EIDAI FUTURES」と称した、食事の未来について考えるワークショップの開催や、3Dフードプリンター・培養肉など、現在のフードテックの動向を紹介し、「食事の未来について考えてみませんか?」と参加者に問いかけました。本発表では、フードテックの中でも3Dフードプリンタに焦点をあて、3ヶ月間3Dフードプリンタを使用して作品制作やワークショップを行い、フードテックを介した食事の未来予想図を完成させる予定です。

「香り」の重要性を認識するためのお店

   料理のおいしさは味の中に独特の風味を感じることで伝わるものである。そしてその風味に大きく関わっているのが「香り」である。しかし、残念なことに私は慢性鼻炎で「香り」をあまりよく感じられていない。そのため、食事をしていてもその本来のおいしさを十分に味わえていないのではと感じてしまう。その中で特に不便に感じることは、食事の際に皆とおいしさを十分に共有できているという自信が持てないことである。同じ料理を食べているはずなのに「〇〇の香りが立っていて美味しい」と言われても共感できなかったことや、「〇〇の香りがするから隠し味なんじゃないか」と言われても全くわからなかったこともある。できることならば、私も同じおいしさを共有し料理についての感想を語り合いたいのだ。これらの事から「香り」がわかるときとわからないときでは料理のおいしさに違いがあるのか疑問を持つようになった。
   この疑問から、 今回のテーマは香りを強く感じるにはどうすればよいか、調理方法や食事環境などについて研究、調査することにした。食材の香りが際立つ料理とはどの様なもので、どの様にすれば料理として成立できるのか研究し調理方法を考えた。調理方法については香りが広がりやすい泡による料理、香りを蒸留したものを使い味とともに感じ易くした料理、液体に香りを移した料理、他の食材に主となる香りを移した料理を考案した。
   考案した料理については実際に製作し二度のポップアップストアにてその成果について検証をした。一度目のポップアップストアでは「香りの記憶定着」をテーマとして1つの香りをメインとしたフルコースを提供し、香りの組み合わせによる変化や調理方法による強弱を味わってもらった。また、香りの情報を事前に意識することでその香りに敏感なるか考察するために、参加者に1つの香りについての記憶定着を図る実験に協力してもらった。二度目のポップアップストアでは「香りを味わい楽しむ」をテーマにした料理を提供し、香りが変化するだけでも食事が楽しめるものを目指した。
   この研究では香りを感じにくい人のために香りをより感じやすくする調理方法や食事環境など考えてきた。私は香りについて考えることで、これまでよりも香りについて敏感になってきた。これは香りを意識することで記憶として定着したからだ。この発表を聞いて、食事の中で香りに注目し「香りのある華やかな食卓」を実践して頂きたい。

消費と選択
─本当に欲しいものを選ぶために─

   人間は「生産と消費」を繰り返してきた。個人の主な消費行動は、既存のプロダクトやサービスを選んで買う、選択行動が基本である。今回は個人の視点を通しての、特に食べものの「選択と消費」を研究テーマとする。私たちには、ものがたくさんあることによって、膨大な選択肢が生まれている。私たちは、それらを選択して、そして消費している。そんな中で、自分の「本当に欲しい食べものを選ぶこと」は可能なのだろうか。
   食べものは食べてなくなる。それと同時に食べられて叶ったことでひとつの欲望が消費された後、また新たな欲望が生まれてくる。次から次へと消費される欲望を、私たちは実はあまり覚えていないのではないか。そして覚えていないことにより、同じような消費を繰り返しているのではないか。私は、自分自身が本当に食べたいものを選べていないように思う。私は、自分の欲望を見落としている気がするのだ。このモヤモヤした気持ちを解消するために、ものを選んで買うこと向き合い、「自分が本当に欲しいものを選ぶこと」に繋げたい。そして限りなく自分の欲望を満たした消費と選択がしたい。
   本当に欲しいものを選ぶために、私はまず、自分の欲望を見つめることにした。しかし「誰かが欲しがっているからという理由でそれを欲しがる」という考え方を知った (『欲望の見つけ方』バージス、2023年、p4)。つまり他人の欲望を模倣するようにして自分の欲望があるというのだ。
   そこで自分の欲望とは何なのかという疑問と向き合っていくことにした。中間発表では、自分の買うものの傾向、つまりある程度の偏りに着目してどういったものを買っているかについて考えた。これで、他人ではなく自分の、過去の選択からの欲望に注目できるのでは、と思ったからだ。その結果、少しでも欲望を叶えてくれたものに対して感じた価値こそが次の消費と選択に活かされるという考え方に至った。
   本発表では、より自分の持つ細かな欲望と向き合っていく。食べて満足した、あるいはしなかった。その理由について考える。自分は一体どんな価値観を持っているのだろうか。それを明確にしたら、私や他の人の今後の消費と選択のためになるのではないか。現代はものがとても多く、選択肢が増えすぎている。故に選べない、では本末転倒である。なるべく気楽に、無理なく、限りなく自分の欲望を満たした選択と消費をするには何を買うべきか。毎日の消費と選択に向き合う。

フィルムパフェ

   私は映画が好きだ。映画は、誰でも気軽に視聴することができて、作品数も膨大である。また、見る人によっては異なる解釈があるし、同じ作品を何度も見返して楽しむこともできる。私にとって映画は、最高の娯楽コンテンツなのである。だが、このような考え方を誰もが共感する訳ではない。長時間映像を見る為に拘束されることが嫌だったり、映画館に行くほど映画自体に興味が無かったりと、私の考えとは裏腹に嫌悪感を抱く人も一定数存在するのだ。食べ物に対して食わず嫌いという言葉があるように、映画にも偏見からくる食わず嫌いがある。食べれば意見が変わるかもしれないのに、何もアクションを起こさず距離を置く。私は、嫌悪感を抱いたまま、固定観念に囚われた映画の見方をする人たちがいる、現在の状況に違和感を持っている。
   映画は、主人公に必ず障害が訪れる作りが面白い。ウイルス感染が広まったり、家族が殺されたり。映画よって障害は様々だ。私たちはその問題を解決する為に主人公が葛藤する姿をみて、共感したり、同情したりする。一筋縄ではいかないストーリー構成があるからこそ、今後の展開がどうなるか気になって目が離せなくなるのだ。だが、映画に関心がない人達はこのような楽しみ方が分からず、嫌悪感を抱いたまま見切りをつけている場合がある。ストーリーを踏まえて見る映画の面白さを体感できていないのだ。そこで私は“ストーリー性”という言葉に注目し、「フィルムパフェ」を制作した。
   フィルムパフェとは、作品を思う事で起こる体験と、映画自体に備わっているストーリー性を「パフェ」というツールで表現したものだ。パフェを選択したのは、上から下へ食べ進める流れに、映画のストーリーとのアナロジーが感じられ、映画に興味がない人でも、パフェの中で繰り広げられるシーン展開を楽しむことができると考えたからである。パフェを通して映画の流れ方を楽しむことができれば、題材映画にも関心を持つだろう。
   中間発表では2つの映画をもとに、ストーリーや、実際に映画を視聴した私の考察等を練りこんだパフェを制作した。題材映画の内容が、あらすじのように分かるものにしたつもりであったが、パフェの詳しい構造や映画のポイント部分などを上手く提示できなかった。そこで12月の本発表では、パフェの構造を詳しく記載したパフェシートや、映画の伏線等を記載したフライヤーを制作して配布する予定である。私の作品を通して多くの人が映画の世界に没入できるよう、新たな映画の楽しみ方を提案する。

今日見たいうんこ

   私たちは毎日排便活動を行っている。その行為は私たちの日常であり、普段気にすることがない行動の一つである。では、排便活動を意識する機会はいつなのか。現実の生活の上で考えるとしたら、それは、体調や健康を意識した際の観察がほとんどだろう。しかし、私たちは毎日違ううんこを出しているのだからもっとその排便活動に注目する機会があってもいい。私は以前、自分のうんこにいつか食べたブナシメジが、その状態を残したままうんこに現れたことがあり、そのうんこにわくわく感を抱いた。習慣化された排便行動のおかげで、人々は自分のうんこに目を向けることもなく、毎日うんこを流してしまう。しかし、便器の中には楽しいものがたくさん隠されているのだ。日常に隠されたうんこの魅力に気づき、うんこにわくわく感を抱いてもらうことがこの研究の狙いである。
   中間発表では、習慣化されて見向きもされないうんこに注目するために、自分のうんこを生成するカードゲームを考案した。ゲームを通して、食べ物と自分の体調でうんこの状態の変化を示すことをした。しかしこのゲームは、毎日どのようなうんこが出ているのかが分かる一つの指標に過ぎず、「うんこに目を向ける」ことにはつながりにくい。
「うんこに目を向ける」にはどうすればよいのか。一つに「共感」を利用する方法がある。自分自身の実体験を他者に共有してもらい、受け取った第三者が自ら「共感」できる部分を見つける。そうすることで、自分のうんこについての記憶を呼び起こすことができ、頭の片隅に「うんこ」というワードが残りやすくなる。
   この「共感」を誘う方法を用いて、本発表ではうんこにまつわるエッセイを書くことにした。私自身が自らの実体験をエッセイに表すことで、自身の体験を詳細に思い返すことができた。それを第三者に読んでもらうことで、「うんこ」にまつわる「共感」を誘う。この「共感」を誘うエッセイによって、「うんこに目を向ける」ことにつながることを狙いとしている。

私が受け継ぐ家の味

   家族の作ってくれる料理が好きだ。その料理は世間一般に言う家庭料理のことであり、この先も食べ続けたいと願う私にとって、私の家の料理は尊い存在なのである。しかし、それはあくまでも私個人が感じていることであり、世間で一般的に言われる「文化の継承」だとか「価値創造」といった考えからきたものではない。例えば家庭料理は、親が亡くなったり、将来私が家族を築かなければ、家族が作る料理とその継承は途絶えてしまう可能性がある。しかしそれ以前に、受け継ぐ私からすれば、レシピを教えてもらってもなぜか同じ味にはならない不思議な料理が家庭料理である。家庭料理をそのような唯一無二のものにしているのは、作り手(親)と食べ手(子)の存在であると考えた。
   母親が作るもの、栄養面を考えたもの、手作りのもの、等々、家庭料理には様々なイメージがある。家庭料理にはこの世間一般的なイメージの他、メディアや調理の専門家が提供する情報もある。これらは家庭料理を構成する要素として追加され言語化されてその料理の概念を作り上げてきた。では、改めて私が考える家庭料理はどのようなものかというと、「各家庭に固有に存在する料理」のことである。当たり前な事だと思うだろう。しかし、自分の親が私のために作る料理、それがどの家庭でも同じものではないと知っているから、私は受け継ぎたいと思うのだ。食べ手と切り離して、作り手だけを見ても同じである。作り手は育った環境や様々な出会いと変化を経て今を生きている。そこで、“家庭料理の個別化”を検証するために、様々な家庭内の「作り手」にインタビューをした。私はその任意の対象に行ったインタビューで、一人一人が話すことのできるただ一つの家の味があるということを思い知らされたのだった。家庭料理に限らず、私達が学校に通ったりバイトをしたり遊んだりする何かしらの活動をすることは、確かに自分の意志で選択してきたことである。それと並行して、毎日何事もなく続いている暮らしのことは、やはりあえて意識されることはあまり無い。もしかして、「当たり前」に私を支えるひとつの家庭料理は、今やそれが崩れた時にしか気づけないようになっているのではないだろうか。子にとって、かけがえのない親が作る料理を食べられる時間は有限であり、家族(子)だからこそ美味しいと言える理由がある。子、つまり食べ手である自身にとって、当たり前の存在である家庭料理がどのように尊い存在なのかを自覚するのは今この時だ。
   私が受け継ぐ家の味とは、それを知る私が考える、まだ完成しない料理なのである。

農家が作った芸術作品

   私は、祖父母が野菜を作る姿を幼い頃によく見ていた。その際に、色や形が異なる規格外野菜や、廃棄される野菜に触れる機会が多かった。規格に沿わないという理由で、大切に時間をかけて育てた野菜が出荷できずに、廃棄されることや価格が下げられて販売されることに違和感を抱いていた。そこで、私自身あまり目を向けてこなかった規格外野菜に着目し、研究を行うことにした。体験してきたことを踏まえ、農家が作る規格外野菜を芸術作品と捉えることで、規格外野菜に対する価値観を変えていくことを目的にした。市場では、工場で生産された品物のように同じ形の野菜が並べられることが多く、形が良くないものは、加工や出荷の段階で分別され、廃棄や肥料にされることで、消費者が目にする機会が少ない。工場生産のように同じ形ではなく、様々な色や形がある自然な造形だからこそ一点物の価値があり、芸術作品になり得るのではないかと感じ、農家が作る規格外野菜を芸術作品とした。私は、規格外野菜と廃棄される野菜に対する消費者と生産者の考えを調べることにした。そこで「行田はちまんマルシェ」で、規格外になったネギの販売とアンケート調査を行い、消費者と生産者の両方から意見を聞いた。農家の方々に廃棄される規格外野菜について伺うと、廃棄する方が販売するよりも手間がかからないなど、売るよりも廃棄した方が良いという意見が挙げられた。その一方で、消費者は購入したいという意見が多く、生産者と消費者では意見の違いが生じていた。このことから、生産者にも規格外野菜に興味を持たせ、価値あるものとして認識してもらう必要があると考えた。
   野菜は人によって、決められた一定の基準をもとに出荷できるか判断されている。この基準があることで、品質や色、形が違うという理由から、価格が正規品よりも、規格外野菜の方が安く売られてしまうことにつながる。多くの要因から、生産者は規格外野菜を廃棄するほうが、販売するよりも手間がかからないとされることがあり、規格外野菜は正規品よりも、価値が低いと捉えられやすいのではないか。しかし、この定められた基準に沿わないと本当に価値の低いものになるのだろうか。人が決めた規格に沿わなくても、其々の野菜には個性的な特徴があり、見方によっては、農家の人が愛情を詰め込んだ芸術作品にも見えてくる。消費者が、個性ある野菜を受け入れ、生産者も自信をもって流通できるようになってほしい。本発表では、規格外野菜に対する生産者と消費者の意見を踏まえて、写真を用いながら規格外野菜の魅力を感じてもらう。

新★解体新書
─オペラの解剖を通して─

   ショーケースの中に並ぶ沢山のケーキの中から期待や好奇心と共に購入する。完成されたケーキをいざ食べてみると複雑でよくわからなく。ただ美味しいと言って食べる事に疑問を抱く。複雑化されたケーキを知りたいという好奇心からフォークの先で少しづつ掬って食べる。少しづつ掬う事でそのケーキの味を知ることが出来る。
   今回、この行動を解剖とした。解剖をすることで対象を詳しく知る事が出来るのではないかもしれないという仮説を立てた。そして、その研究の対象をオペラとした。オペラとは高さが2㎝程と決められたガトーショコラの一種である。チョコレートとコーヒーのケーキで、薄く焼かれたジョコンド生地とコーヒー風味のバタークリームとチョコレートのガナッシュクリームを重ねて作られるケーキは菓子職人の究極の目標と言われている。上に飾られた金箔はオペラ座の金のアポロン像を表している。研究を始める為に市場調査を行ったが、その結果から高さが2㎝のホンモノのオペラは無い事が分かった。伝統のあるフランス菓子もいつしかその高さの壁は崩れ落ちてしまったのかもしれない。決まりが多くあるオペラだが、この姿形が変わったときそれをオペラと言えるのか、オペラという為には何が必要なのか、姿の異なるモノに意味を持たせたい。その為にオペラの生地やクリームを使用しデセールの製作を行った。そして普段食べているオペラとの比較や理解を深める為にポップアップショップを開催した。ショップ開催の当日は解剖されたオペラを食べてから普段のオペラを食べてもらった。解剖されたオペラはクリームと生地を好きなバランスで食べる事が出来るようにした。また、シロップも自分でかけるので好みに合わせてカスタマイズできるのが、この解剖したオペラの特徴である。その後、普段のオペラを食べるので改めて自分の好みを知る事が出来る。
   伝統のあるフランス菓子の1つであるオペラだが、もしかしたらこの伝統にも進化が必要かもしれない。それは形や高さなどの見た目、オペラで使用されるクリームや生地かもしれない。もしくは今はない要素かもしれない。今は無いけれど。もしかしたら当たり前になるかもしれない進化したオペラを考えた。

私は何を選び食べるのか、あるべき1つの選択肢
─アニマルウェルフェア─

   買い物に行き、ずらっと並んだ肉を見ていると、ある言葉が私の頭をよぎる。サブテーマにある「アニマルウェルフェア」がまさしくその言葉だ。アニマルウェルフェアとは、動物の状態のことを指す。現在、このアニマルウェルフェアに対して配慮すべきだとする動きが広がってきている。「アニマルウェルフェアに対する配慮」とは、詳しく言うと動物が感じる苦痛やストレスを最小限に抑えて喜びや高揚感といったポジティブな感情を持ちながら、生活できるように配慮することである。私はアニマルウェルフェアという言葉を初めて知った時、動物性食品を口にする際に生まれる心の曇りを晴らすような概念だと感じた。それと同時に、この言葉を私の考えの核として卒業研究をしたいという思いが芽生えた。また、アニマルウェルフェアに対する配慮を推進していくべきだと強く感じた。
   したがって、本研究ではアニマルウェルフェアに配慮すべきだという考え方をもとに1つの目的を定めた。それは、私自身が何らかの動物性食品を購入する際にアニマルウェルフェアに配慮した商品を選択肢の1つに含めるということである。仮にアニマルウェルフェアについて知らなかったとしたら、おそらくそれに配慮した商品は選択肢の1つにも挙がらないだろう。たとえ、アニマルウェルフェアに配慮した商品を購入しなかったとしても、頭の中にぱっとその選択肢が浮かぶことが最初のステップとして重要なのではないだろうか。アニマルウェルフェアについて知ったうえで何を選び食べるのか、ただ食べたいという感情のみの食物選択から一歩進むべきだと考えている。
   中間発表では、アニマルウェルフェアという言葉への理解を得るために、アニマルウェルフェアに配慮した畜産を実現するために必要な要素をまとめた図を作成した。また、アニマルウェルフェアに配慮して畜産を営んでいる2つの農場に取材を行い、農場の実際の様子を1つの動画にした。今回の本発表は、違った角度からメッセージを伝えることにした。具体的には、絵を描いてそれにメッセージを添えるという方法をとった。絵は、実際の取材や見学で見た光景をもとに描いたものが多い。その絵を通して、アニマルウェルフェアに配慮することの重要性を伝えたい。そして、私自身もその絵を制作していく中でアニマルウェルフェアへの思いを自分の中に、一筆一筆塗り重ねていきたい。

食材に感謝をしよう

   コンビニのアルバイトをしているときに賞味期限切れ間近のお弁当や揚げ物を捨てる業務内容があった。捨てているときにふと、この食品には価値がないのか、なぜ捨てられるためにつくられるのかという疑問をもった。また、そのことに今までは何とも思ってない自分に驚いた。このことから捨てられてしまう食べもの、特に食材に興味を持った。
   私たちが普段食べているものは、元を辿れば生き物から作られている。現代を生きる私たちはそのことを忘れてしまいがちである。その理由の一つに、消費者と一次産業の距離が離れてしまっていることが挙げられる。今は、スーパーマーケットやコンビニで手軽に食品や食材が手に入る便利な時代である。お金を出したら簡単に手に入り、使いきれなかった食材が冷蔵庫の中でいたんでも、また新しく買えばいいと気軽に考えている人は多いのではないだろうか。また、生産者と消費者の距離が離れてしまった分、生きている状態の食材に触れる機会は減少している。このようなことによって、命をいただいている実感が少なく、食品や食材を捨てることに抵抗を感じにくいのではないかと考えた。
   本研究の目的は、わたしたちが食材の命を頂いていることを改めて認識し、感謝の意識を抱くにはどうすれば良いのか。そして、感謝を持って食べるとはどのようことかを知ることである。中間発表では、様々な角度から感謝の方法を模索した。本発表では、一番感謝を実感しやすい方法を模索する前提として、「食が命から作られていること」をメッセージの中心に置いた。そして、感謝とは何かという部分に注目し、それを実現するために必要な方法を模索した。特に、普段の生活の中でできる感謝の姿勢について考えた。