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和菓子づつみ

─現代だからみえるもの─

2016.01.13 活動紹介 学生取材記事
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 展覧会“和菓子づつみ ─現代だからみえるもの─”は、多くの方に支えていただき、様々なご縁もあり恵まれた環境の中で開催しました。
 きっかけとなったのは、オリジナル製本した一冊の本でした。食文化栄養学科3年次に「パッケージ論」という授業があります。 その授業では、オリジナルの和菓子を考え、そのパッケージを作るという最終課題があり、授業期間が終ったあと、それぞれの作品を写真に撮り自家製本しました。 その本をSNSにのせたところ、印刷関係の学校に通う中学時代の同級生から「楽しそうなことやっているね。何か一緒にできないかな?」 という反応をもらい、そこから話をするうちに、どんどん作りたいもの・みたいものが膨らみました。 そして、その友人と女子栄養大学食文化栄養学科の有志を集い、“6201”というユニットを組みました。

 “6201”は基本的に“ロクニイゼロイチ”と読みますが、数字は世界中にありそれぞれの読み方があるので、そのそれぞれの読み方でいいとしています。 また、“6201”とは始めにこの展覧会メンバーが最初に集まったゼミ室の番号です。 ユニット名を考えているときに、始まりの場所でいいのではないかとなり、この名前になりました。

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「パッケージ論」の最終課題の作品をまとめて造本しました。
これが、今回の展覧会のきっかけにもなりました。

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この展覧会のために“6201”というユニットを組みました。

 このユニットは、ただ作りたい・みたいという想いで動いています。

この展覧会は和菓子とパッケージが展示されていますが、その主となるコンセプトは“現代だからみえるもの”というサブタイトルの方に込めています。

 「みえる」というと、確実にみていたり、みえていたりするように感じます。 しかし例えば、目の前の色をみなが同じようなものとしてみているとは限らず、人によって色の見え方は異なっているといえるかもしれません。 あるいはまた、ある個人Aに対して、Bという人は「明るい性格」という印象を抱き、 また別のCという人は「人見知りの性格」という印象を抱くなど、人によってみえている、またはみているものは異なります。 その異なる中にも何かしらの共通認識があるから言葉を話したときに通じたり、同じ景色を見て感動したりするのだと思います。 ここで、「みている・みえる」が確実にみている・みえるように存在しているのか、という疑問が浮かびます。

 「現代だから」という言葉をサブタイトルにつけたのにも理由があります。 作っているわたしたちは現代を生きていて、現代からみています。 そして、ここにいてみえる景色、リアルにわたしたちが「みている・みえる」ものを作りたい。 そんな想いから「現代だから」というサブタイトルになりました。 現代からみる過去も、きっとその過去にいた人とは違う見え方をするだろうし、未来もそうだと思います。 その違いも、現代からみているわたしたちの確実に「みている・みえる」もののヒントにならないか…と考えました。

 授業やゼミのテーマで和菓子に触れてみると、和菓子には、作る人のみえている感性や景色が落とし込まれており、 目で直接みることのできないものが形になっているようでした。

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『みている景色─拡大してみているもの、みえるもの─』
錦玉羹でコーティングされた琥珀の混ざった練りきりや、琥珀を浮かべた錦玉羹など。 葉緑体やニューロンなど、現代だから知り得ることをモチーフにしている。 パッケージには、のぞく、やぶく、などの仕掛けがそれぞれある。

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『陰陽─ネットのいろいろ─』
琥珀羹。ネットワーク時代のコミュニケーションをテーマとし、見えるようで見えない半透明の琥珀が、複雑な模様のパッケージに包まれている。 和菓子がとインターネットという時代のかけ離れたものを結びつけることで、現代性を表した。

 現在、和菓子を巡って巻き起こっている変化があります。 ここでは、細かく書くことはできませんが、和菓子業界の中で、新たな流れがうまれているようです。 その新たな流れが、この問いから生み出されるものに近づくためのヒントを含んでいるような予感をもっていました。 和菓子に触れてから和菓子にのめり込んでいき、作らずにはいられませんでした。

 また、和菓子が変化していくことに引きつられて、和菓子を包み込むパッケージも変化していました。 「みている・みえる」に大きく影響する、周りを包み込む空間にも、雰囲気や空気感には直接みえていなくても読み取る何かがあります。 それが和菓子のパッケージにも現れているようでした。 和菓子単独ではなく、それを包み込むパッケージも一緒に制作することで、さらに「みている・みえる」に近づける予感が強まりました。

 こういった思いから和菓子とパッケージを作って、現代だからみえているものを少しでも掴めないかと思い展示会を開催しました。

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『URBAN LIFE』
羊羹を層にして入れた錦玉羹。和菓子における季節の扱いを、団地から見える現代の風景のうつろいとして表現した。 パッケージは和菓子らしさよりも、現代らしさを重視して製作した。

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『和衣』
羊羹に栗が入った錦玉羹が合わさった菓子、芋羊羹に杏餡のきんとんが合わさりクランベリーがのった菓子。 パッケージは、衣をまとったイメージで、西陣織と村山大島紬の柄をモチーフとした。

 また、今回の展示会ではご縁があり、浅草にある “江戸駄菓子 まんねん堂” さんに、砂糖のみで作られているお菓子“金花糖”を提供していただき、そのパッケージも制作しました。

 “金花糖”は、江戸時代発祥で駄菓子の原点です。 結婚の引出物や節句のお祝いに使われ、昭和の初め頃には定番の駄菓子として子供たちに親しまれていました。 しかし、現代では金花糖は「幻の駄菓子」と呼ばれるほど、見かけられなくなった「失われつつある文化」です。

 そうした理由のひとつに「作る技術が難しい」ということがあります。 原料は「砂糖と水」というシンプルさだけに作ることが難しく、大量生産はほぼ無理です。 また、砂糖が固まりやすく、その日の気温・水温・湿度により仕上がりが変わるため、経験と勘が重要となるなど、 職人が後輩や弟子に技術を伝えるのも難しく、金花糖の職人は年々後継者が減っていきました。

 数年前、東京でただ一人となった金花糖職人が引退したときに道具を受け継いだのが「まんねん堂」です。
 そして、今回の展示会で金花糖のパッケージを制作することによって、金花糖が現代にもう少しだけそっと、 あたかもそこにもとから存在していたような姿をみられないかと思い取り組みました。

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『日常』
練りきりの入った錦玉羹と煎餅。和菓子で描かれる「自然」を現代の日常的な視点に置き換えたらという発想で、 電信柱にできた烏の巣や、コンクリートについた猫の足跡などをモチーフとした。 電信柱のように立った状態の錦玉羹と薄い和紙で包まれた煎餅がひとつのパッケージに入っている。

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『金花糖─江戸駄菓子まんねん堂の招き猫─』
金花糖の招き猫。パッケージは着せ替え可能で四種類あり、それぞれ麻の葉紋様、七宝紋様、青梅波紋様、桜紋様をあしらった。 紋様は四季の風景であり、これを季節感とした。

 展示会を開催するにあたり、SNSでユニットのページを作り、チラシを配り歩きました。 それぞれ様々な反応がありましたが、なによりもチラシ配りで実際に人に会って話をする、ということが単純に楽しかったです。 その楽しかった感覚はいまでも残っています。

 そして、2015年10月8日から13日までの6日間の展覧会には多くの方がお越し下さいました。 来場者は302人でした。 その中でも強く印象に残ったのが、まんねん堂の金花糖職人さんである鈴木さんが、まんねん堂のパッケージをご覧になっている姿です。 その姿を言葉でうまく言い表せないのですが、鈴木さんは「感無量です」と言ってくださいました。 その姿と言葉で、展覧会をやってよかったと心の底から思いました。

 ただ作りたい・みたいという想いから私たちは活動しています。 それを多くの方にみていただき、ご縁があって応援していただいて、その想いが人と共鳴して新たな、作りたい・みたいものが膨らみました。 みえる景色も展覧会を行う前と後では大きく違います。 終わった後の、作りたいもの・みたいものがどんなものなのか言葉で表現出来ませんが、また次の展覧会でそれを形にしたいと思います。

 “6201”は、想いは同じですが少し姿を変えて活動し続けていきます。

(食文化栄養学科 4年 T.N./2016.01.13)


参考ウェブサイト
江戸駄菓子 まんねん堂→: 江戸駄菓子 まんねん堂