令和4年度 食文化栄養学実習

平野覚堂ゼミ■ビジュアル・コミュニケーション研究室


くもりのない料理
─カードゲーム「ざいりょうとりょうり」─

 私たちは生活する上でいくつかの習慣化した行動を取っている。トイレの後手洗い場へ向かう、寝る前にスマホを充電する、箸を持つ、お風呂で髪を洗う、これらひとつずつの動作を今更意識せずとも行える。「習慣」は日常の食事にも使われる言葉で、「朝食を食べることを毎日の習慣にしよう」など、どこかで聞き覚えがあるかもしれない。さらに、習慣化した行動は「慣れ」によって意志とは関係なく自動化されていると言える。私は、人々の日々の食事が、この「習慣化=自動化」によって「なんとなく」なものに変質してしまっていると思う。
 料理は食べるとその存在がなくなり、食べずにおくと適温から離れ直に腐っていく。食材の組み合わせやバランスも時々で、今目の前にある料理は唯一無二の存在である。その存在をなんとなく自動化して食べるとは、これほど勿体ないことはないだろう。私はただなんとなく食べることで実はよく見えていない食事を「くもった料理」と名付け、このくもりを晴らす方法にゲームを用いることにした。ゲームで遊ぶことが目的になることで、敷居を低くすることが可能になり、あまり身構えずに挑戦できる。そして習慣化した行動の変化に重要な要素として、ゲームにおける「反復」も有効だと考えた。食卓を囲むシチュエーションの再現で、テーブルを囲む形のゲームを考案した。中間発表までは材料と料理の組み合わせを利用したカードゲームを作成し、素材に注目することで、くもりを晴らすきっかけにすることを提案した。後期ではこのカードゲームを使ってオリジナルの遊び方を作り、ルールブックを作成することにした。
 今まで特別意識していなかった目の前の料理が、この発表をきっかけに少しでも見え方が変わったら、それはきっとくもりが晴れた料理になるだろう。

香る食べものと料理

 「おいしさ」という言葉ほど表現が難しく、あいまいなものはない。人が感じるおいしさは、その人が育った環境や慣れ親しんだ食べもの、そして喫食の経験の有無、それらの積み重ねによる実態のない感覚に影響される。つまり、「おいしさ」について、人はそれぞれ違う感覚を持っているということである。しかしあえて、ここで一般に言われる「おいしさ」の要素について考えてみる。何があればおいしさという現象を言い当てることができて、そこにたどり着ける方法を見出せるのであろうか。
 まず、料理のおいしさに大きく影響される要素は味、香り、食感の3つであると言えるだろう。私は、この中で香りこそがおいしさにとって最も重要だと考えている。香りのある料理の充足感、ない料理の残念さ、どうしてこんなにもおいしさに差があるのだろうと思ったことはないだろうか。実は、人が受容できる香り物質は1万にも及ぶと言われ、その数十数百もの組合せにより食べものの香りを知覚する。
 このように、複雑で目に見えない香りをどう表現したら良いか、誰もがよくわからない。料理の評価に味を語るほど、香りを語ることは容易ではない。実際に、味を特徴にしたレシピはたくさんあるが、香りを目的にしたものはほとんどないのである。そこで、日常の料理で香りを巧みに操れたら、香りを有効に使うタイミングをつかんだら、新しい香りのおいしさが生まれると考えた。そして、何に重きを置いたら、香りを最大限に活かせるか可能性を探った。その一つは、香りどうしの新しい組合せを料理にすること、もう一つは調理の方法で香りを引き出すことである。組合せでは、果物や野菜の新鮮な香りを組み合わせて、新しくて意外な香りを取り入れる。また、調理により変化した香りがおいしさを生むことから、その工程と香りを結びつけた。そしてこれをヒントに、皆に自らのアイデアを料理に取り入れてほしい。

大人の嬉び食べ

 私は、カフェやレストランなどで新聞や本を読んだり、携帯を見ながら食事をしている人をよく見かけます。他にも、おしゃべりに夢中になっていたりと、ながら食べが原因で食事に集中できていない大人が多く存在することに気がつきました。これらの行動の原因は何なのか。突き詰めるとそこには「食事のルーティン化」がありました。食は、人の生活の質との関わりの深いものであり、人は食べ物を食べることで、幸せを感じることができます。一日数回設けられる食事の時間を、もっとたくさんの人に楽しんでほしい、しっかりと食事と向き合い、食べる行為の幸せをより感じてもらいたい。これらの考えをもとに、新しい食事の楽しみ方方法を生み出すことにしました。食事を楽しむ方法として、こどもの遊び食べに着目し、食事に遊びを取り入れることにしました。子供の遊び食べに良いイメージを持つ大人もいれば、よくないイメージを持つ人もいることを、アンケートを通して知りました。両者の考えを考慮し、食べ物で遊ぶ際は、家の中でしか行ってはいけないことをこのテーマのルールに定めました。そして、他人に迷惑をかける「子供の遊び食べ」との違いを表現するために、大人が楽しみながら食事をすることを、「嬉び(あそび)食べ」という字で表現することにします。遊びながら食べることに抵抗のある大人は多く存在します。そこで、簡単に作れて簡単に嬉ぶことができる食事をまとめたレシピブックを製作することにしました。読んだ後、実際に作らなくても、「遊びながら」ではなく、「嬉びながら」食事ならしても平気かもな、と思ってもらえる効果のある作品を目指します。人々が、嬉びながら食事をすることへの抵抗をなくし、何か普段は思い付かないような発想や、新しい気持ちや感覚に出会えるような、食の文化を推奨していきます。

もとはどんな形かな?

 他国の料理や郷土料理は、その名前を聞いただけでは、どんな食材からできた料理なのか分からないことがあります。しかし、私たちにとって身近な調味料だからといって、やはりその原料を自信を持って答えることがどれほどできるでしょうか。例えば醤油は何からできているか分かりますか? 何から出来ているから全く知らなかったとしても、味に塩味があることから塩が使われているかもしれないと想像することはできます。これは塩がしょっぱい・塩味があるということがわかっているからです。他の食品でもしょっぱいから連想させてラーメンやポテトチップスにも塩が使われているのかなと、更に想像することができます。このように、塩だけで想像を広げることができます。つまり想像は何か1つ知識があることで膨らませることが出来るということです。このことから、私は調味料や料理など、その形からはもとの材料や食材の形が直接的に分からないものを何からできているのか想像して、更に想像を連鎖させると面白いのではないかと疑問を持ち、テーマにしました。私たちが想像をするには、まず知識や経験が必要となります。例えば私の作品の題材にしているトマトケチャップを食べて、この中にはトマトや胡椒などが使われているのかなと考えます。それはトマトや胡椒の味を知っているからです。そこで私は想像力が培われつつある小学校1年生を対象に絵本を作成しました。
 作品につきましては、中間に引き続き、形や色など正確な状態を知ってもらうためにリアルなものに近い絵にしています。対象である小学校1年生には少し難しいかもしれませんが、少しでも多くの知識を得てほしいことから、スパイス名が出てくるといった内容の難易度にしています。見ていただく沢山の方に作品を通してケチャップの世界を楽しんでもらえると嬉しいです。

常設 味わう「たべあと」展

 食事を終えてひと息ついたころ、ふと、お皿に残った野菜の欠片が目に入った。きれいに食べきったつもりでいたけれど、サラダボウルの中では小さなレタスや人参が浮き、スープ皿の底には掬いきれなかった液体と、細かな具材が溜まっている。よく見てみると、手でちぎるときに落ちたパンくずも、フォークを刺した衝撃ではがれて飛んだ揚げ物の衣も、料理の仕上げで上から散らしたであろう細かなハーブも、皿のそこかしこに点在していた。
 食後に残る「たべあと」は、本来であれば料理として口に運ばれ、自身の糧となるはずの食材の一部である。しかしこれらは最後まで食べられることはなく、食後にはあたりまえのように「汚れたお皿の構成要素」という認識に変化している。「たべあと」は、数秒前まで自身が美味しく食べていた料理の一部で、床に落ちてもいなければ、腐っても、傷んでもいない。けれど、無理にでも食べ尽くさなければならないというものでもない。そのうえで、単に「汚れたもの」として、いやな感情と共に切り捨ててしまうことができるものでもないと、そう考えてしまうのだ。
 この「たべあと」という存在を「汚れ」という認識から遠ざけて、違う視点で見ることがあっても良いのではないか。食べる前の料理と同じように、ただそこにあるものとして楽しむことができれば、食事を、本当に最後まで味わうことができるのではないだろうか。
 その思考の実現に向けて、今回は中間発表会に引き続き、作者自身の「たべあと」の視点を描いた『味わう「たべあと」展』を開催する。展示を見て、何を感じるかは見る人次第。そのあたりまえの多様さが、「たべあと」への認識にも表れることを願っている。

飾りを食べる
─チャービルを食べるレシピの考案─

 ケーキ屋で売っているケーキの上に、鮮やかな緑色の葉っぱが飾られています。また、家庭でお菓子を作るときに彩りとして葉っぱを飾ることもあります。しかし、それらの葉っぱはお菓子を食べるときにはお皿の隅に追いやられてしまいそのまま食べずに捨てられてしまうことがあります。なぜ、食べられるのに食べずに捨てられてしまうことがあるのでしょうか。実際に葉っぱを食べない人に聞いてみたところ「食べていいものなのか分からない」とのことでした。飾られているお菓子の葉っぱは鮮やかな彩りを与えるとともに、お菓子で甘くなった口内をスッキリさせてくれます。「食べていいものなのか分からない」と思ってしまうのは、葉っぱを只の飾りと思ってしまい食材として認識していないからではないかと考えました。そこで、飾りだけではなく美味しさの一部として認識して食べてもらえるようにレシピを考案します。
 飾りの葉っぱといってもミントやタイムなど様々な種類があります。そこで今回はチャービルひとつに絞ってレシピを考案しました。チャービルとはほのかな甘味と爽やかな香りが特徴のハーブで、別名セルフィーユやフレンチパセリともいいます。ビタミンやミネラルなどの栄養素も豊富に含まれており、香りや味が繊細なため「美食家のパセリ」といわれてフランスではオムレツやソースに利用されています。チャービルは風味が穏やかでお菓子に添えても味に影響が少なく、見た目もレースのように繊細なためナチュラルで可愛らしく飾りとして多く用いられています。そんなチャービルをいくつかのお菓子に活用して、色や風味にチャービルを感じられるようなレシピを考案し、飾りだけではないチャービルの活用法を研究しました。

かたよらせないデザイン

 私たちはモノやサービスを十分に使えないときがあります。例えば耳が不自由であればマイク越しでやり取りするドライブスルーは使えなかったり、海外旅行をすれば言葉が分からず買い物を失敗したりするかもしれません。もしお腹が痛くて階段を登るのが億劫な時、エレベーターを使えれば少し楽に移動することができます。お腹が痛い人に対してその場で治療して階段を登れる元気をつけなさいと個人について責めるのではなく、階段ではない方法で上の階に移動する方を考えることで暮らしやすくすることができるのです。言い換えれば、障害を持っている人だから使えないのではなく、階段のように社会の側が障壁を生んでいるから使えないとも言えます。このように、社会にも原因があると捉えることで気持ちが楽になった人がいたり、エレベーターのように新しい仕組みが出来たりしています。
 社会が障壁を作っているという視点で世の中を見ると、ドライブスルーが音の聞こえる人しか利用できないように、多数派の健康な人が利用する前提で作られたデザインをいくつも見かけます。どうしたら使える人が偏らない公平なデザインに変えていけるのでしょうか。どんなモノやサービスも、元をたどると生み出したのは私たち人間です。生み出した誰かの無知や偏見、決めつけによって偏ったデザインは引き起こされ、社会の障害になるのです。そこで私は、人の意識を変えることで社会の障害を減らせると仮定しました。作品を見た人が自分事として考えてもらえるような機会を作ります。この作品だけでは未完成で、見た人が作品の続きを想像することで成り立ちます。人の数だけ答えがあり、完璧な結末は無いため、自分だったらどうするかを一度考えてみることが目標です。今は良い方法やシステムでも時が経てばまたその時に合う素敵な案が出てくるでしょう。この問題に向き合うにはみんなが想像し続ける必要があるのです。

材料の決まっていないレシピの本。

 レシピを探す時、あなたは何を考えるでしょうか。家庭で毎日料理をする人たちにとって、今日のご飯のアイディアを考えることは非常に面倒なことです。そのため少しでもヒントを得るべく、本やインターネット等のレシピを参考にする人が少なくありません。しかし人が料理と向き合う環境は十人十色で、料理本はターゲットを絞り込まない限り驚くほど不自由で使い勝手の悪いものになってしまいます。そこで私は自由で扱いやすい料理本を制作することにしました。
 さて、私の研究のテーマは「材料の決まっていないレシピの本。」です。このテーマを聞いて、あなたはどんな本か想像できるでしょうか。おそらく多くの人が分かりそうで分からないと感じた事でしょう。難しい言葉はひとつも使っていないのにどんな本なのか想像しづらい。これは多くの人にとって「レシピを使うこと=レシピの指示に従うこと」であり、レシピが全ての指示を出してくれると当たり前に思っているからです。しかしこの細かな指示のせいで、レシピには自由がありません。何から何まで指定され、読み手は従う事を強要されているのです。人々はレシピに従うことに慣れてきっていて、再現できそうになければ作ること自体を諦めることもあるでしょう。このままではいつまでたっても自分で料理を考える力が身につきません。レシピがもっと柔軟で、各家庭のキッチン事情に寄り添ってくれるような自由さがあればどれ程使いやすくなることか。本研究では使える調理器具ややりたい調理法から今日何を作るか一緒に考えてくれる料理本を制作し、自分で料理を考える力を身につけるための提案をします。材料なんてなんでもいい。今ある食材で、今ある調理器具で、自分のキッチン事情に合わせて毎日の料理と向き合いましょう。

ひとりでごはん

 孤食が問題視されている。孤食とは、ひとりで食事をすることを言う。食事は家族みんなでするのがいいらしい。孤食は良くないものとされていることを私は小学生の時に知った。私は小さいながらも違和感を覚えた。なぜなら我が家では、朝食はひとりで食べるのが普通であり、夕食は家族全員揃うことは数少なかった。しかし、それを良くないことだと思ったことがなかったからだ。
 父は朝早くに仕事で家を出る。姉や弟とは通学時間が違うため起きる時間はもちろん、朝ごはんを食べる時間も違う。母は朝から掃除や洗濯で大忙し。一方、夜は姉や私は塾、弟は習い事があり、それぞれ終わる時間が違う。みんな揃って食べようとすると22時を過ぎてしまう。そのため、各自で食べていた。私の家庭では、これが普通であり、この生活リズムが家族ひとりひとりに最も適していた。
 しかし、学校の先生が言うにはこれは良くないことらしい。これを聞いたとき、自分の家族が否定された気がした。なぜいけないことなのか。私は孤食について調べるため、さまざまな本や論文を読んだ。それらのデータによると、ひとりで食事をする子供の多くは寂しさを感じているらしい。孤食の改善策として、なるべく家族揃って食事をするようにと書かれていた。しかし、家族揃って食べるのが不可能だから孤食になっているのに、この改善策は効果的でないと感じた。また、ひとりひとりの負担が大きいと感じた。そこで私は、孤食でありながらも寂しさを感じないものはないか考えた。そして、食事と同時進行でできるゲームを作った。これでもう、ひとりで食べるなとは言わせない。ひとりで食べたっていいじゃないか。私はこのゲームを通して孤食を勧めていく。

潰れた食べ物に価値はないのか
─見ているようで見ていない食べ物の姿─

 私はこの頃、下ばかり見ている。それは気分が落ち込んでいるからでも、落とし物を探しているからでもない。潰れた食べ物を探しているからである。床、或いは地面に落ちて潰れた食べ物を見つけた時、それに嬉々として近付く人は私ぐらいだ。大半の人は、落ちているその場所を避けて通るだろうし、仮にもし踏んでしまったら「最悪」と嘆いて、怒りや悲しみと言った負の感情を剥き出しにするだろう。それらの行動は、嫌悪感が関係して起きるものである。人は死を回避するために、嫌悪感を働かせなければならない。だから、摂取することで生命を脅かす危険のある、潰れた食べ物に嫌悪を示すのである。そのため、高価なものであっても、好きな人が手作りしたものであっても、床や地面に落ち、潰れてしまった食べ物はゴミとして捨ててしまうのだ。しかし、潰れた食べ物は本当になんの価値もないゴミなのであろうか。単なる先入観で価値はないと決めつけてはいないだろうか。食べ物の価値はなにも「食べることができる」に限ったわけではない。見えていないだけで、価値は確かに存在しているはずだ。この主張を確固たるものとするために、私は研究を始めた。認知できていない価値を引き出すためには、見せ方を変える必要がある。そこで、作品に悪臭や感触といった嫌悪感が発生する要素を閉じ込める工夫を凝らした。
 中間発表では、ブージア博士の意志を引き継ぎ、彼の悲願の目標であった潰れたアイスクリームの標本を作成した。本発表では、ブージア博士とは違う方法で見方を変える。今回、使用するのは、普段身に着けることも多いビーズである。また、今作は取り扱う潰れた食べ物の種類を増やしたため、前回とはまた異なる価値の発見に繋がるのではないかと考えている。今まで、見向きもしなかった潰れた食べ物に視線を注いでみる。その行動の先にあるものこそ、価値である。